2018年2月13日火曜日

入籍と妊娠の御報告

年の瀬ですね。
僕は今日から年越しまで塩炊き、みそ作り合宿。
ということで、年が改まる前に改めて御報告をさせていただきます。
このたび、入籍しました。
昨年夏に結婚の誓いを立て、親族への挨拶やビザの調整などの段取りをしたり、彼女の居住地であるアメリカと日本とを行き来している内に時間が進み、入籍が完了したのは1月23日となりました。
そしてその間に、子を授かりました。
今日が最終月経から101日目です。
なので、出産予定日は7月末。
(これはあくまで、予定。生まれてくるか生まれてこないかは未定。予定を決定事項ととることで女性にプレッシャーを無自覚にかけるという事が起きていることが気になっているので、書いておきます)
ということになり、僕の身辺は急展開の急変化中。
意識そのものも、何かを考える上での優先順位の建て方も大きく変わっています。
子は、生まれる生まれない抜きに、今ここにすでに生きているので、僕の意識の中ではすでに3人ぐらしが始まっています。
ごはんも、風呂も、睡眠も、散歩も、運動も、手仕事も、三人の健やかさのためのもの。
何をするにも、母と子の心身の健康を最優先に考えてしまうし、そこに正直でありたいし、考えより先に、本能がそうしたがっています。
今のところ、大阪を拠点に産む場所、育てる場所を考えていますが、毎日胎内の子に相談しながら色々やらせてもらっています。
子と母の言うことを(口で言って無くても伝わってくることを)大切に。
母子の持つ純粋で美しいエネルギーの流れに仕えること。
それをしたいという溢れる思いに正直であること。
母子が安心で健やかにいられるよう、家をつくり、飯をつくり、寝床をつくること。
ひとつひとつの、自然に湧いてくるものを、ひとつひとつ大事にしていきたいと思います。
・・・
コミュニティで子育てする、という文化が失われたことで、妊婦が孤立し、旦那は産前産後の母子と触れ合う時間がとれず、やはり孤立する。
寂しさや孤立感が、心のすれ違いや寂しさや、不満や嫉妬をうむ。
産前産後を孤立した中で過ごすことで、出産経験のない男女が出産や子育てに関わる機会がなく、彼ら彼女らも「子育てコミュニティ」から疎外されるような気持ちを味わう。
孤立の連鎖。
そういう社会デザインを、皆で変えていくこと。
誰かが祝われることで生まれる、羨望や嫉妬のエネルギー。
誰かを持ち上げて、叩き落とすワイドショー、ゴシップの恐ろしさ。
いろんなことを、この五ヶ月で感じています。
これからも色々、経験し、学んでいくことでしょう。
そのすべてを、自分の子だけではなく、世界の子どもたちという未来に繋いでいけたらと思います。
感謝 拝

2018年1月3日水曜日

道 (2006/07/1)


部屋中に資料を広げ、机に向かい続け、 
ようやく核をテーマに書き続けていた文章が仕上がってきた。 

あとは推敲です。 
もう数日かかりそうです。 

さて。 
核、放射能、放射線というものに向き合う中、 
「道」ということをよく思う。 

原子力発電は安全か否か。 
必要か否か。 
止めるためにはどうしたらいいのか。 

そこに思いを巡らせることはとても大切なことだと思う。 

でも、そこで導き出されるものは、あくまで答え。 

答えが出た所で、答えを現実にするにはどうしたらいい? 

答えに向かって進むべき道は? 

浮かんでくる疑問の数々は、突き詰めていくと結局 
「いかに生きるか」 
という問いに収束されてしまう。 

ウラン、プルトニウム、 
その他原子力発電を実行するそれぞれの過程で生まれる 
放射性物質。 
それらの危険性、 
原子力発電所の排出する放射性物質の量、 
耐震性、 
ガンや白血病とどう結びつくのかという科学的根拠。 

それらは果たして、原子力発電の是非を問う上で 
どれほど重要なものなのだろうと、ふと疑問に思った。 

放射能に関する様々なデータや数値、 
安全性、科学的根拠、 
そこに本当の答えはあるのだろうか? 

命に対する敬意、思いやり、 
自分の命を取り巻くものへの想像力。 
そこに意識を向けろ、という声が聞こえてくる。 

ウランの鉱脈が発見されたおかげで暮らしていた場所を 
追いやられ、 
ウランの危険性を教えられずに採掘作業に従事させられ、 
肺がんや白血病を患っている先住民たちの姿。 

被ばくするかもしれない、 
いつか病気が発症するかもしれないと不安を抱えながら働く 
原発労働者たちの姿。 

彼らの心境や、生活そのものに思いを馳せたとき、 
どんなデータを提供されたとしても、 
今のままでいいとはどうしても思えない。 

そして同時に、 
原発を止めるという結論だけを追いかけたいとも 
思えなくなってきている。 

もし自分が電力会社の社長だったら。 
社員の給料の支払い、 
株主たちへの配当、 
相当なプレッシャーがあるだろう。 

また、過疎や財政の落ち込みに歯止めが利かない中で、 
自分がその土地の村長や町長だったらとも思う。 
どうにかして財政を立てなおさなければという思い、 
目の前に様々な問題が迫まってきたときに 
差し出される巨額の助成金。 

分かっていることとやっているのことのギャップ。 
矛盾、葛藤。 
それは、誰の心の中にもあるものだ。 
今やっている仕事を辞めたいのに辞められない、 
喧嘩したくないのについしてしまう。 
そんな経験、誰でも持っているものではないだろうか。 

原発推進側だって、 
頭では分かっていても原発を止めることは出来ないと 
悩んでいるのかもしれない。 

そして、原発で働く労働者の中には、 
原発は安全と思い込むことで心のバランスを 
保っている人もいるだろう。 

その心を乱暴に揺さぶることはしたくないとも思う。 
少なくとも、同じ心を持つ仲間であるという配慮は 
忘れたくない。 

原発を推進している人間ひとりひとりにも、 
自分と同じように「心」があるということだけは、 
忘れない自分でいたい。 

どんな立場にいようと、どんな場所に暮らしていようと、 
すべては同じ地球に暮らす仲間であり、 
同じように悲しんだり不安を抱いたりする人間。 

誰かを打ち負かすのではなく、 
誰かに責任を負わせるのではなく、 
反対、賛成を越えたところで 
すべての仲間、ひとりひとりが幸せになれる道を探したい。 

見ようとしなければ見えてこない人の心。 

そして今問われているのは、 
「目に見えないもの」に思いをめぐらせる想像力では 
ないだろうか。 

今使っている電気が誰のどんな思いをのせて 
どんな経緯で送られてきているのか。 
そこに思いをはせることは、 
水はどこから来ていて、 
食べ物はどこから来ていて、 
命はどのようにつながっているのかという、 
目に見えない真実に気づくきっかけになる。 

そして、 
すべての生が等しく尊いものであるという認識は、 
結果として自分自身の生を認め輝かせることにも 
つながるのではないかと思う。 

核、放射能、それは目に見えないもの。 
そして、 
遠い国で被ばくに苦しんでいる仲間たちの姿も 
目には見えない。 
同様に、原子力発電を推進しているひとりひとりの心も、 
目には見えない。 

問われるのは、愛に基づいた想像力。 
思いやり、命への敬意。 

目に見えない思いが、すべてのいのちをつなぐ。 

核を取り巻く目に見えないもの、 
心、不安、恐怖、孤独、 
それらに思いをはせ、 
愛と共感の目で見つめていくことが出来たときに、 
「これからどうしたらいいのか」という、 
目に見えない未来を作り出していけるような気がする。 

核というテーマに向き合っていく中で出会う仲間との関係、 
彼らとの語らいや行動、経験、 
日々の積み重ね、 
自分の中に生まれる気づきや学び、 
少しずつ見えてくる自分自身と世界とのつながり、 
それらひとつひとつを大切に、 
一歩一歩歩んでいくその足跡を大切にしていきたい。 

その道の上では、 
自分自身の中にある矛盾とか葛藤とか、 
不安とか焦りとか、色々出てくる。 
よく見られたい自分とか、 
正しくあろうとしちゃう自分とか。 
人に何かを押し付けてる自分とか。 

大いなるテーマは、大いなる学びをくれる。 

何はともあれ歩むべき道があるということは、有り難いことだ。 

世界と自分が分ちがたくつながっている以上、 
自分自身の道を極めていくことが、 
助けたいと思う仲間を本当に助けられる自分になることに 
つながるんだろうな。 

放射能はオイラに「ハートを開き切れ」と言っているようだよ。 
長い道のりだ。 
少しずつ見えてくるひとつひとつを大切に、 

一歩一歩いこう。

若狭への思い (2006.04.15)

福井県南西部にある若狭湾。 

大飯原発、 
高浜原発、 
美浜原発、 
敦賀原発、 
高速増殖炉もんじゅ、 
廃炉になった転換炉ふげん。 

日本一原発が密集しているこのエリアを、2005年3月、沖縄の比嘉良丸さんと2人でまわった。 
現地の人たちと交流しながら、 全ての原発と、神社やお寺、祠や古墳、水源や龍脈、水脈、地脈などのエネルギーポイントを祈って回る旅。 

若狭湾の反原発運動の精神的支柱とも言える存在である、小浜市明通寺の住職であられる中嶌哲演さん、 30年以上前から活動をしている敦賀市の太田和子さんなどにお世話になり、色々な話を聞かせていただいた。 

今でもその時のことを思い出すと、何とも言えない想いがこみ上げてくる。 
日本海側特有の曇りの多い天気。 太田さんを始めとする皆さんの言葉の節々に感じられる、絶望感、あきらめ、疲労感。。 
町に人は少なく、山の木々も力を失っているように見える。 
そして、皮肉にも、原発が立ち並ぶ海岸はどこも、目を見張るほどに美しい。 

敦賀に住む太田和子さんは、元幼稚園の園長先生。 
「サウダーヂ」と名付けたそのお宅に、70年代、80年代には世界中から研究者からヒッピーまで押し掛けてきて、多い時には30人以上が集まる場所だったという。 
太田和子さんは、30年以上前からずっと(いまだに!)ひとりで敦賀原発の正面玄関で「美しい阿弥陀見が浜を汚さないで」というプラカードを持って立っている。 
和子さんが子供の頃に行った敦賀半島の阿弥陀見が浜。 
どこからともなく阿弥陀さまの像が流れ着いたことでそう名付けられた。 
和子さんは初めてその浜を訪ねたとき、その美しさに心を打たれ「ここは竜宮城の入り口に違いない」と確信したそうだ。 
そしてその想いは今も変わらないという。 
原発のおかげで立ち入り禁止になっているその浜を、どうにかして守りたい。 
いまだに彼女はその想いを持って、ただひとり、原発の前に立っている。 
原発の前に立てば止まるなんて思っていない。 
30年間色々なことをしたし、色々な人が助けにきたけど、その間どんどん原発は増え続けている。 
何をしたら止まるかなんて、もう分からない。 

自分自身の生きる意志を、その火を消さないように、毎日原発まで通っているんだろう、そう思った。 
その姿をただ見ている自分が情けなかった。そんな話を聞いても、何も答えられない。彼女を救うどんなアイデアも持っていない、自分の不甲斐なさを思った。 

湾のあちこちに「○○原電まで○○キロ」という標識が立っている。原電とは、今で言う原発。 
このような標識が普通に立っているこの土地で暮らす人たちの心を思う。 
見ないようにしているのか、感じないようにしているのか、何か目に見えない影のようなものが、確かにこの土地を覆い隠している。 

3日間かけて、すべての核施設を訪ねた。 
静かな海岸にそそり立つ巨大な原発が近づくたびに、頭が痛くなる。不機嫌になってくる。悲しみともいらだちともとれない、自分でもどう量っていいか分からないような感情がこみあげてくる。 
一緒に回っていた良丸さんに辛くあたる。 
原発の玄関に立つ警備員にケンカをふっかける。 
神社で祝詞を挙げる声が詰まり、涙が溢れて止まらなくなる。 
自分がぶっ壊れるかと思った。 
でもその想いは、その場を逃げたいというよりは逆に、この場所と関わり続けたい、この状況を越えたいという強い想いだった。 

若狭の地は、朝鮮とほど近く船も付きやすい場所であり、沖縄や北海道からもカヌーが行き来していたと聞いた。 
そして、日本に大和という国が出来、奈良や京都に都が出来たとき、時の支配者たちは交易や漁業で栄えるこの土地の力を恐れたという。
そして彼らは、この若狭湾に大きな寺社仏閣を立てて信仰をコントロールし、琵琶湖や街道(今もある鯖街道)を使って都への貢ぎ物をさせた。 
若狭から関西への貢ぎ物は、今、電気へと姿をかえ、今でも関西の消費電力の約50%がこの若狭湾の原発から送られている。 
また、敦賀原発のある土地は、江戸時代から被差別部落とされていた集落だそうだ。その被差別意識が、原発を受け入れる選択に踏み切らせた原因の一つであるという民俗学の教授の話を聞いた。 
原子力発電に関わるすべての土地にこのような様々な背景があるだろう。原発という目に見えるカタチの奥にある差別、分断、支配、歴史。賛成反対で解決出来る問題ではない。そのことを痛いほど感じた旅だった。 

昨年の秋、若狭湾からほど近い滋賀県朽木村で行なわれた「山水人」に参加した。 
暦のワークショップのために参加したものの、気づけば暦の話をする以外の時間は、ずっと核の話をしていた。ちなみに山水人の会場は、若狭湾の御神島、常神半島から鞍馬、貴船、吉野、天河、熊野本宮、玉置神社などをつなぐ南北のエネルギーライン上に位置する場所。そんな予備知識もあり、核を語り、暦を語ることを通じて、若狭にエネルギーを送っているつもりで過ごした1週間だった。 
そしてこの「山水人」で出会った縁を通じて、4月15日に京大西部講堂で行なわれる「六ヶ所村ラプソディー」上映やトークやライブなどをまじえたイベント(まつり?ギャザリング?)で、鎌仲ひとみさんとトークをすることになった。 

そして今日、同じく4月15日に、島根から青森県六ヶ所村まで歩くwalk9が若狭湾で祈りの時間をとると聞いた。 

4月までに若狭を訪ねたいと思っていたが、その想いはどんどん強くなり、そして今日、その想いは決定的になった。 

太田さんの家を訪ね、明通寺の哲演さんからもんじゅ裁判や美浜プルサーマルの現状についてお話を伺ったり、具体的にどのようなサポートが出来るかを聞いたり、若狭に暮らす人たちと気持ちの上でしっかりとつながっておきたい。 

今日は糸満で「六ヶ所村ラプソディー」上映です。 
若狭へ、島根へ、六ヶ所村へ、沖縄からの祈りの波が届きますように。 

 

2017年10月6日金曜日

肚でかもす

腹立つ事も、悲しい事も、言葉に出来ない感情も、全部肚で醸してやる。

そういう気持ちがようやく戻ってきた。

国家の力をアピールするために東大寺に建てた大仏に塗る金箔の原料が足りないからと言って、征夷大将軍が今の福島に攻め込んできたのは今から千年以上前のこと。

彼ら国軍から蝦夷と呼ばれた原住民達のチーフであるアテルイとモレは、和平調停をするという約束を信じて京都に出向き、その場で打ち首にされた。

町のど真ん中の橋の下で、ノコギリで首を切られた。

それ以来、福島以北の土から鉱物が掘り起こされ、首都であった奈良京都に運ばれ続けた。
そして現代、福島の地に作られた原子炉から、首都東京にエネルギーが送られ続けた。

千年は、遠い昔ではない。

変化を起こす意志と行動がなければ、同じことが繰り返される。

医学界は命のためにあるもの。

しかし厚労省がそうだとは、僕は思っていない。

第二次大戦中に中国人を捕まえては「丸太」と呼び、八つ裂きにし、薬物を投与し、他国軍がたじろぐぐらいの人体実験を行い、様々な薬物についてのデータを取り続けていた「731部隊」の高官達が「アメリカの言うことを聞く」という約束を交わして無罪になり、彼らが作ったのが厚労省とミドリ十字。
世界的に見れば、製薬会社は生物兵器や枯葉剤、マスタードガス、放射線兵器を作る技術を、そのまま医療・製薬のビジネスに転用している。それらを推進するWHOは、人口を減らす事にやっきになっている。

しかし、医師は心と魂を持つ個人だ。

その昔、国の言うことを聞かずに、独自に薬草学や気学を使って民の病を治していた人たちは「国家にとって脅威」とされ、「鬼」などと呼ばれて迫害を受けた。鬼の一部は、メディスンマンであり、シャーマンであり、ブラックジャックであり、魔女だ。
今、放射能から命を守ろうという人たちは、いわば鬼扱いを受けていまいか。

いわきにある鬼ヶ城にはこんな看板がある。
「当時、ここには鬼と呼ばれる国家の言うことを聞かない人たちがいました。彼らは地元の人たちからも嫌われていました。しかし朝廷軍が彼らを退治しました。」
この看板を見て、放射能から子どもを守る活動をしている女性が「鬼って、まるで私たちのようですね」と言った。

そういう歴史を、そのままにしてきたのは、国家ではなく個人だろう。

鬼が迫害されるさまを、黙ってみてきた従順な人たちが、この歴史を作ってきた。

海賊、山賊、鬼。

海旅Campの代表は、海賊の集まる下関の、暴走族の元リーダーだ。
国家教育に違和感を覚えて高校を中退したようなやつが、保養の現場を続けている。

そういう時代だ。

あきらかに国家から「海賊扱い」されているような、上関原発建設計画を止めようとがんばる、祝島のおばあが「殺されるかもしれないね。でも、死んだら化けて出るから大丈夫。」と笑い飛ばす声が、海に響く。

Spirit never die .

歴史を、his storyにしてはいけない。

私たちの物語は、私たちが作っていくものだろう。

嘆きも悲しみも怒りも、ぜんぶごった煮の味噌煮込みうどんにして食って血肉にしてやろう。

魂が国家に屈することはない。

いくさも弾圧もすべて醸して味噌にしてやる。

みそ作りで忙しいのでいくさに加担する暇はない。

踊りで忙しいので、踊らされる暇はない。

いくさに出す味噌はない。

いくさに出す塩もない。

一瞬たりともいくさに加担するつもりはない。

今までも、これからも。

たとえ殺されようと、魂は死なない。

先人たちの歩んできた、いくさからおりていく道をたやさぬ事以外に、することはなし。

未来永劫平和を希求。その道は自分たちで作るので大丈夫の大成功が約束されている祝福の道だ。

2017年10月4日水曜日

保養と医療についての思索というか悲しみ

「風フェス」終わって、またひと波。

甲状腺検査を受けた方から主催者に連絡がはいる。
結果を受けて、検査をしたドクターが福島県内のとある病院宛に書いた紹介状が、拒絶されたとのこと。

1つ目の理由は、検査をしたドクターが総合病院勤務でないから。
このドクターは国家資格を持ったれっきとした医師なのですが。

2つめの理由は、「保養先での検査レベルでは検査と認めない」とのこと。どこの病院に行っても検査をしてくれない。だから保養プロジェクトの中で、専門医を呼んで検査をしている。しかし、その検査は検査と認められず、医師は医師と認められない。

これらを理由に「あなたのことを診察しません」と言われた人の気持ちがわかるだろうか。

こういったケースが6年間の間に山のように蓄積しているのだろう。

声なき声が、出せない悲しみが、どれだけあるのだろう。

人を救う為の医学界が、どれだけの人間に悲しい気持ちを味あわせてきたのだろうか。

業界に圧力をかけ続けている政府や原子力村の人たちは、自分たちの選択によってどれだけの人たちを命の窮地に追い込んでいるのか、分かっているのだろうか。

ある医師は、保養企画の中で甲状腺検査をしていることが理由で、「放射線学会」からの除名を勧告されている。

僕はこの検査に立ち会って、紹介状の手配や病院のリサーチをした立場として、この出来事に当事者として関わっている。

甲状腺検査の現場で、こういうことが起きている。

初めて身にしみた。

検査のスタッフをしてみて初めて分かること。

検査のベッドに横になる時に湧いて来る、なんとも言えない不安と孤立感。

それらの不安を少しでも軽減しようと努力しているスタッフ達の気遣いと思いやり。

今回検査を担当したドクターは、四国から手弁当でやってきてくれた。

ひとりひとりの思いと、具体的な行動が、簡単にはねのけられ、踏みにじられていく。

言葉にできない感情とは、こういうことを言うのだな。

・・・実名は出さない。

病院名も、医師の名前も、何も出せない。

追求も詮索も、しないでほしい。

たぶん出しても何の得にもならない。

ゴシップか、ワイドショーのように、外野から騒がれて終わるだけだ。

騒がれるだけで、手は差し伸べてもらえない。
そういう気持ちを6年間募らせてきた人たちがいる。
「助けるつもりがないなら、そっとしておいてくれ」
と言う言葉を、何度も聞いた。

そして、誰をバッシングをしたいわけでもないし、攻撃したいわけでもない。

大事にしたいのは、これらを体験したひとりひとり。

検査を受けたひとりひとり。

この場とつながる当事者である、自分を含めたひとりひとりが感じていることを、しっかり未来につないでいくこと。

被ばくから命を守りたい、と思うものたちの狭く小さな繋がりの中で、なんとかその気持ちが折れないように、支え合うしかない。

そして、僕は改めて、未来のために改憲とか安保とか消費税とか言っている人たちに
「これから起こるかも知れないことにどう対応するかより、今起こっているこれらの現状に対してどう思うのか。何か対応をするつもりがあるのか。」
を聞きたいし、その態度によって、彼らを「代議士」として信用できるかどうかを決めたいと思った。

どんないいこと言ったって、どんなに素敵な希望を語ったって、今ここにある絶望に、今ここにある嘆きに寄り添えない綺麗事は、何の薬にもならない。

今起こっていること。
今みんなが味わっていること。
それに寄り添ってこそ政治家だろう。

代議してほしい。
有権者たちが味わっていること、声に出せない声を、代わりに出してほしい。
それが、代議という仕事だろう。

混乱する政局の中、改めて、シンプルなところに立ち戻りたい。

2017年9月28日木曜日

保養、選挙、、

今週の土日は新潟にて、健康検査、免疫力アップイベント、交流、医療相談などを盛り込んだ保養企画、通称『風フェス』のスタッフ。
僕は用務員とみそ汁づくりと養生話とエコー検査助手。
被曝対策のためと思えることはなんでもやりたい。

今は、保養が意味があるかどうかという議論や、保養の理想的なあり方はどんな形か、といった「議論」をすることよりも、それぞれがやりたいと思うこと、それぞれが意味があると思うこと、それぞれが「出来ること」の範囲を大切に、できる実践、経験を積み重ねていくことが大事だと思っている。

得てして議論は対立を生みやすい。
どっちがいいかとか、こういうやりかたはいいとか、わるいとか。

今は、対立している場合じゃない気がする。
原発が何基も爆発して、その事故が未だに収まっていないって、相当な緊急事態が続いている時。

「火を消すには、バケツリレーが効果的か、ホースを使うのが効果的か」って、手を止めながら議論しているとか、ないでしょー。

でも実際は、多くの実際のケースとして「保養をしている」とか「保養に行っている」というだけで、社会的に何らかの差別を受けるということが起こっている。

だから、保養の現場のことは、伝わりにくい。

そして改めて、保養の現場で起こっていること、保養の現場を持つ者が感じている事、体験していること、気づいていること、そろそろテキスト化したりしていったほうがいいんだろうなーという気持ちを持って、今回は現場に入ってみる。

せめて、保養に思いを寄せる人たち、理解や共感を寄せようとしている人たちとの間で、何か分かち合えるものがもっとあるんじゃないかと思い始めている。
そういうことは、不特定多数に無軌道に広まるSNSで共有するよりは、ブログか、印刷物としてシェアしていくのがいいのだろうなと思ったり、ある程度練り込んだものを作って、SNSで「そういうものができたよ」と知らせるのがいいのかもと思ったり、している。

このあたりは、とてもデリケート。

なんでもかんでも語ればいいというわけではない。

「被災者は今こんな状況だ。」
と語ることで、そういう状況ではない被災者の抱えている実情や思いが掻き消えることもある。
ひとりひとり、抱えているものが違う。
一般化はできない。
一般化して、思考停止を生む、ということはよくあることだ。

「高江に住む人達はみんなこんな気持ちなんだろう」
とか、ざっくり、みんなこう、というように、誤解を生むことはよくあることではないだろうか。

「フクシマ」という言葉を嫌う人も少なくないと認識する。
「フクシマが可愛そう」
「フクシマを元気に」
「フクシマの人たち」
その謎の、架空のアイコンについて語ることで、ひとつひとつの細かな実像にピントが合わなくなっていく。

「311」という言葉も、そう。

「311が起きて以来」という語りは控えたい、と思っている。

津波のこと?

地震のこと?

原発事故のこと?

さらに、津波、と言ったって、各地で起きていることは、全然違う。

それらを一括りにすることで、解像度が粗い、漠然としたイメージを伴うアイコンが出来上がってしまう。

現場や現実や個人が、埋もれてしまう危険性を伴うアイコン。

保養を語ることの難しさの一つは、具体的な現場や現実や個人について語ることができるのか、というところにもあるだろう。

具体的にひとりひとりの実情を語る、というと、今度はプライバシーということが出てくる。

語ることで、明るみに出すことで、望ましい効果を産み出すことはありえるし、
そうやって個が立つことで、各地での裁判や交渉は今も続いている。

しかし、それが出来る人たちと、それが出来ない人たちが居ることも現実。
そして、出来る人は素晴らしく、出来ない人は素晴らしくないという判断はできない。
何かをすること、しないことは、自由だ。
何かをしなければいけないという義務や、しなければ劣っているという差別を、
放射能汚染という被害を受けながらさらに課せられるとしたら、そんなおかしなことはない。

今の状況は、何か悩みを抱える人が、そのことを話せなかったり、話しにくかったり、
孤立しやすい(バッシングすら受けやすい)傾向にあると思う。

「それは本人の問題だ」
「話し方、伝え方、あり方の問題だ」
という話もあるけど、それも酷な話だよな、とも思う。

「その話はしてはいけない」という暗黙の空気感を、僕はどうしても感じてしまうし、
保養の現場などで出会うひとりひとりの話を聞いていても、そのことを現実として感じてしまう。

「放射能」という言葉が出しにくい空気は、やっぱり不自然だし、政治決定や経済的バイアスの影響によって作られている不自然さだとも思う。

この空気がこのままであるなら、現場、個人の実情を明るみに出すことで、孤立やバッシングが強まる可能性もある。

だから、伝えにくい。

言葉にしたり、文字にしたり、知ってほしい人に伝えることをすることが、難しい。

そして、この空気を作っている原因の一つであるであろう「政治」の現場にいる人たちに、
伝えることを、コツコツとしていかなければいけないな、とも思っている。

具体的に、収束作業員の状況を例に挙げてみる。
どう考えても自分たちの労働条件がひどいと思っている作業員がいるとする。
そのことを明るみに出すことで、その企業が収束作業を請けられなくなるとう状況を作る可能性がある。
そうなった時「ここで働けなくなったら、仕事がない」と言っている高齢の作業員が同僚にいた場合、
彼は明るみに出すことより、その状況を我慢しつづけることを選ぶ可能性がある。

明るみに出すことで、自分の職場が失われること、社会的ポジションが失われることを恐れる場合と、
周辺の人間を巻き込むことになることを恐れる場合がある。

これらの例は、具体的に、収束作業員達と接触、やりとりをしている人から聞いた話を元にしている。

被曝労働者が激増していること。

一部の地域で「やっぱり被曝の影響が出ているかも」と思い直している人が増えていること。
色んな変化が起きている。
そして、関心のない人には全く関係ない話になっている。

知りたい人だけが知っている話になってきている。

関心を持てなくなってきた、と思う気持ちも、とても理解できる。

疲れや諦めや絶望、嘆き、それらをかき消すことも、励まして無理やり取り去ることもできない。

思っていること、感じていること、体験したこと、それらを共有できる空気を願う。

その空気を作っている原因であり、空気を作ることができる可能性を持っているものでもあるのが、政治なのだろう。

山本太郎議員や川田龍平議員が、国会本会議や委員会の中で、被曝、原発、被災者、という言葉を放ってくれていることが、どれだけ僕達が暮らしや活動の現場でそれらの言葉を使って動いていくことの、支えになっているか。

そういったひとつひとつの発言や質問や、その準備や、関連する話し合いの場を作ることを続けてくれている取り組み。

もしそれがひとつもなかったら、と思うとゾッとする。

今の政治に対する不満や絶望。
そこに気持ちが向くことを止めることは出来ないだろう。

でも同時に今大事なことは、今ある有り難いもの。
そこにつながって、それを増やしたり、育てたりしていく道を描きながら、ひとつひとつの選挙を見つめたい。

衆議院の中にも、原発ゼロを掲げ続けている近藤昭一議員を始め、ハラスメントを受けながらもその立場を変えず、発言や行動を続ける人たちがいる。


そういう状況の中で、僕にとっては相変わらず選挙となったら「被曝のことを話せる空気を作れるかどうか」が唯一の判断基準になっていくんだろう。

そこについて話せない候補者や政党は、応援できない。
できない、と書くと否定的に聞こえるかもしれないけれど、その気持を抑えることは今のところ難しい。
しかしそこで拒絶はしたくない。
そこで対話を止めるのではなく、粘り強くそういう問いを投げ続けたい。

できれば自分たちのコミュニティから代表者を送り出すような政治との関係性を作っていきたい。
でも突然やってくる解散選挙に毎回対応することは、本当に難しいとも思っている。

そして長い目で見た時に、、自分たちのコミュニティを形成していくこと、育てていくことを、
どんなタイミングでどんな形で政治に関わるにせよ、その土台としていたい。

政治で決定されたことを、実践する現場はコミュニティ。

被曝について語れる空気を政治が産みだしたとして、その空気を作り、育てていくのは現場。

現場で育まれるものが政治を作るし、政治が作ったものを育むのも、現場なのだと思う。

やれることは小さい。

でも、小さいことを積み重ねていく現場こそが、政治の土台なんじゃないかな、とも思う。

ひとつひとつの暮らしの中で育てていけるもの。

ひとつひとつの現場でできること。

そこで生まれる人と人のつながり。

そのつながりの質を、政治の質に反映させていけるように。

保養という取り組みに関わっていると、絶望することも多い。

「保養に関心があるということがわかるだけで家族や親戚から責められるから、名前は言えないのだけど」
という相談が最近入ったと聞いた。

そういうことのひとつひとつと、直接出会ってしまう現場。

でも、恐れることと逃げることを履き違えないようにしたい。

恐れながら、関わっていたい。

自分の中に湧いていくる怒りや恐れと共にあることで、
誰の中にもそれがあるということを、少し理解できるような気がする。

繊細で、デリケートで、センシティブなテーマだということを大切に、
ひとりひとりの、あるがままの心境を大切にしながら、
伝えること、明るみに出すことを、意識し続けたい。
世界のすべての場所から孤立するヒバクシャがいなくなる世界が必ず待っているから。