2016年12月31日土曜日

染めについて思うこと




竹の棒に麻布を巻き付けて

捻ったり絞ったりを色々やっ
その上で茜染めしたらこんな風になりましたの図。



この写真は2015年春、沖縄の本部で行った三宅商店シャイン研修の時に撮ったもの。


この日は他にも、板締めや吊るし染めなど、いわゆる模様付けの技をシェアしました。



・・・



2013年冬、「染め司よしおか」の吉岡幸雄さんに出会いました。



吉岡さんの染めに向かう姿勢、作品の圧倒的なまでの素晴らしさに触れ、

挫折感とも言える大きな刺激を受け、一時は染めができなくなりました。

自分の染めに対する姿勢
染料や布やそれらを生み出す水や土や作業する人々との向き合い方
どなどを問い直す日々が続き

ようやく「染めたい」という気持ちが復活してきてからは
絞りや模様付けをしたいという気持ちがなくなり
とにかく無地で納得のいく色を出すという事に意識を集中してきました。

依頼を受ければ模様も付けるけど
自分でデザインするな
迷わず無地。

















とにかく
「どうしたら美しい色を出せるのか」
の問いと試行錯誤を続けたい
という感じでした。


その気持ちは今もまったく変わらないし
その道は果てしなく続くでしょう。


染めを続けるかぎり、吉岡さんとの出会いから始まった探求は続くと思います
仲間たちに模様付けの技をシェアした時
自分の気持ちが「染めができなくなった時」から変化している事に気が付きました。

ざっくり言えば、絞りも板締めも吊るし染めも、楽しい。
無地もいいけど、絞りもいい。

どっちの自分もいる。

その幅を発見できたことで、求道者のようだけでなく
純粋に楽しみとして染めと向き合っていけるという実感が増した体験でした。

。。。

そのうえで、
果てしなく続くであろう、色への探求。

この道は死ぬまで続くんだろうなーとゆるやかに予感しています。

僕は染めに対して、それくらい運命的なものを感じています。

。。。


平安の時代の着物の色は、化学染料では再現できない。

時代劇や映画を見ても、その時代の色および波動を感じ取れていないと思ったりする。

たとえば聖徳太子が制定したといわれる正位十二階

その十二色の天然の色素で染められた帽子のもつエネルギー。

それぞれの色の持つ力を、本当には実感できていないんだろうなと思ったりする。

そしてこれは根拠のない話だけれど
たしかに僕たちの記憶の中に、それぞれの色は眠っているということを感じたりもする。

茜、藍、泥、蓬、弁柄、杉皮
様々な野草や土で染めてみて、毎回その染料の香りと色に懐かしさを感じる。


・・・


吉岡さんは延喜式に載っているような染色の技術を再現しようとしている。
その頃の人たちに挑戦しようとしている。


「延喜式に載っている分量と工程通りに染めても、どうしても同じ色が出ない。」
「書いてある通りの量の紅花を使っても、同じ色の濃さにならない。」
「空気や水が汚染され、植物の力が弱まっている。」
「土や水との繋がり方から、見直さないといけない。」
と語る吉岡さん。

僕はその話を聞いて納得した。
なんで自分が染めに惹かれたのかの理由の一端が見えた気がした。

自分の手でものを作るということは、自然環境に責任を持つことと繋がっていた。

色と向き合うということは
自分たちの生活が水や空気を汚しているという現実と向き合うことでもある。
いい色を作る自然環境に、責任を持つということでもある。

草木染めをしながら食器や体を洗う洗剤が合成化学薬品では、本末転倒。
もちろん原発や戦争は
水や空気、そして茜や藍を弱らせる。

放射能汚染を止めるための道と
いい色を出すことを探求する道は
つながっている。

石油によって顔料や染料が作られるようになり
紡績も染織も機械が行うようになり
利便性が増したと同時に
人の手が持つ技、人の感覚や勘が鈍っている。

キッチンタイマーを使いながら染めていても
「本当は20分染めたら、すすいで、20分媒染」
なんて話じゃないんだろうと思いながら染めている。

タイマーがなくても
布や水や色の様子、怪しいことを言えば、それらのスピリットと対話ができていれば
タイミングは自分でわかるはず。

薬効なんて
人に聞かなくたって、感じればわかるはず。


ずいぶん退化した。


機械の進化と反比例するように、僕たちは鈍感になった、と思う。

愚痴を言っているのではなくて、素直な実感としてそう思う

そして染めはある意味、僕にとってはリハビリでもある。

忘れてしまった色を思い出す事で
思い出そうとする事で
自分の手や足や五感や直感を使って試行錯誤を続ける事で
身体感覚、草木や水や空気や土とのつながりといった
大事なものをたくさん思い出していくんじゃないかと思っている。

色と向き合うということは
土や水、風や石や草と向き合い直すということでもある。
だからこそ、じっくりいきたい。
五感が鈍らないように。
ひとつひとつをじっくり味わえるように。

自分の時間感覚に草木を呼び込むのではなく、
草木の時間、土の時間に入っていくように染めていたい。

なるべく機械を使わずに
この体を通じて
なるべく手間暇をかけて
じっくりと
時間をかけて
いつまでも、美しい色達と付き合っていきたい。

















2016年11月27日日曜日

旅と養生〜 LIfe is journey

SNS、インターネット、メディアと自分の関係を見つめる中で、少しずつ「今まで書いてきた文章」を整理していこうと思っています。

僕が運営メンバーになっている大阪吹田のコミュニティスペース「モモの家」の発行する「モモだより」に隔月で連載させてもらっている『Life is journey』という記事をブログにまとめていくことにしました。


まだ改行などやフォントなどのリメイクを施す前ですが、公開しながら直していこうと思います。

この写真は、連載のきっかけになったイベントのフライヤー。



旅と養生。

旅は道連れ、梅干しと味噌と共に。

僕も運営に関わっている大阪のコミュニティ「モモの家」の「モモだより」に連載している「Life is journey」というコーナー記事をブログにまとめました。今後も更新していきます。

先日、同じことを投稿したのですが、記事が閲覧できなくなっていたので直しました。
今後、改行や文字サイズなども再編集していくと思いますが、まずはシェアします。

life is journeyという言葉に初めて出会ったのは、たぶんネパールかタイ製のタペストリー。
たぶんカイラスだろうな、と思われる山に向かってパラパラと何人かの旅人が歩いて行く俯瞰図が綺麗で、そのヴィジュアルと共に頭に残っていた言葉です。

lifeという言葉は「人生」という意味もあるので「人生は旅」ともいえます。

lifeを「生活」や「暮らし」と捉えると、生活の中の選択や創造の一つ一つが冒険のように思えます。

そして「life=生命」と捉えると私たち生命コミュニティー全体が、旅を続けているんだなーと思えてきます。

人生の中で出会った衝撃やインパクト、感動や気付きに対してどう応答していくのか。人生の中での出会いが、暮らしの中での選択や創造を変えていく。

私たちはどこにいて、どこに向かっているのか。

その答えではなく、その問いを生きていく。

その時々に浮かんだ問いを、書き綴っています。

近々、原発や放射能について書き貯めてきた文章もこのブログにまとめます。

ではでは、今日もよき旅を◎


2016年11月22日火曜日

talking about our spring !

今からおよそ100年前にインドのヨギー、スワミ・スリ・ユクテスワによって書かれた「聖なる科学」の中で紹介されているインドの長期暦によると、私たちの意識は銀河の中心に近づき遠ざかるおよそ23000年の周期の中で、銀河の中心(ヴィシュヌナーヴィ)に近づいていく流れの中で目覚め続け、遠ざかる流れの中で眠りに入っていきます。





そして、この周期を何度も繰り返しながら人類の意識は少しずつ成長を続けていきます。
ちなみに今地球は、ヴィシュヌナーヴィから最も遠ざかった季節であるカリ・ユガを抜けドワパラ・ユガに入っています。

もう少し具体的に言うと、カリ・ユガとドワパラ・ユガの移行期をようやく抜けてドワパラ・ユガの本格期に入ったところです。

ヴィシュヌナーヴィに近づいていく流れの中で、意識は数千年かけて電気的なつながりについての知識を取り戻し、その後の数千年をかけて磁気的なつながりについての知識を取り戻し、ヴィシュヌナーヴィに最も近づいた数千年の中で、宇宙のあらゆるつながりについての知識を完全に取り戻すと言われています。

そしてそこから、まずは数千年かけて磁気的なつながりについての知識を失い、その後の数千年をかけて電気的なつながりについての知識を失い、ヴィシュヌナーヴィから最も遠ざかったカリ・ユガ期に、宇宙のあらゆるつながりについての知識を失っていきます。

カリ・ユガは、一日でいうと夜みたいなものかなと思います。
一年でいうと、冬かな。

ってことは今は早朝とか、立春の頃とか、かなと思ったり。

春の始まりは立春。
この頃は、高まる陽気に押し出されて、冬の冷気が最後に地上に表出してくる、最も冷え込む時期です。
最も冷える時期は言い換えれば冷えの気が極まって転じて衰え始める時期。

転換は表面ではなく内部から始まるので、今時期は雪が溶け出して土中に栄養を運んだり、地中の種が破れたり、地表から芽が出たり、体内の脂肪分が少しずつ溶け出したり、、、

春はゆっくり、目には見えない内側から静かにやってきます。

冬の間にじっと種の中に蓄えてきたエネルギーが、徐々に外に張り出してきます。

晴れる春。
張り出す春。

春の始まりは寒暖の差激しく、冬の気と春の気がせめぎあう時期。

大切な種を大事に温めながら、春の訪れを寿ぎたいと思います。

迎春天晴 感謝 拝

2016年11月18日金曜日

今日の妄想メモ

妄想メモ。

冨貴工房で憲法茶会とTPP茶会をやろうと思ってます。
味噌づくりの日に大豆を茹でながら、とかがいいかな。
TPP、憲法、一番やりたいのは読みあわせ会。
講師と参加者という関係を作るより、今やりたいのは「みんなが声を出す機会」づくり。
「あたらしい憲法のはなし」とか、憲法の条文や改憲案、TPPのフライヤーやブックレットなど、なるべくわかりやすく読みやすいものをゆっくり声に出して読んでみる。
音読すると、遠くにあるものと感じていたTPPや憲法が自分のものとして入ってくるようになる。
僕は噺家みたいな感じで大人数の前で声を出す事が多い。
そのたびに、他人の言葉が自分の中に刻まれていく。
そういう体験をみんなで分かち合えたらと。

暦WSも工房で1回もやってないのでやってもいいな。
身の回りに陰陽や五行で心身環境を語れる人が増えると色々楽で楽しくなりそう。いい食べ物、悪い食べ物なんてないし、そのようなイージーで表面的なジャッジをしていると、逆にそれぞれの食べ物の性質や効能を掘り下げていく意識が生まれにくい。「レッテル貼り」でわかった気になって終わり、みたいな感じは残念。
セシウムにも、白砂糖にも、ブッシュにもトランプにも裁きを与えるより、よく観察して理解を深めたほうが付き合いやすくなる気がする。ってことで暦。これはまだしっくりは来ていない。腑には落ちていない。から、すぐはやらない。
やらないけど「やるっていうのもありかな」とちょっと思い始めている。なんせ、旧暦や陰陽や五行を使いこなす為にはその言語で会話する機会が大事だから、そのような言語を学ぶ「英会話セッション」みたいな機会は、もっと増えるといいなと妄想中。

工房でのWSはなるべく全て値段設定なしの自由料金でいきたい。
参考になるのは「カルマキッチン」の取り組み。
(ご自身でググってみてください。)
金額を決める人とその金額設定の背景や根拠に共感している人が共鳴している関係は美しい。嬉しい。
でも、その金額の背後にあるものをいちいち説明しなければいけないのは疲れる。お茶やご飯も一緒。なぜ自販機で買うジュースは120円なのか。なぜオーガニック・スムージーは600円するのか。理解と納得と共感を持ってお金を払ってほしいし、お金を支払う事を「消費」ではなく「投資」として認識しあえたら、すべての「お金を使う行為」は社会作りのムーブメントになる。理想と現実の間に横たわるギャップを踏まえた上で、自分の中にある違和感や「こうしたいな」の気持ちには正直でありたい。

工房での、僕主催での染めワークショップは今後徐々に減らして、いずれは辞めていく。
ワークショップって「教える側」と「教わる側」の関係を固定してしまったら危険。
ワークショップって「工房」とか「共同作業所」って意味だから。
ひとりひとりが、主体性と積極性と「場全体に対するメンバーとしての責任感」が寄り集まってこそ、ワークショップは本当の意味での「共同作業所」になるのだと思う。
三宅商店の面々に染めのノウハウをシェアするのは面白い。
彼らは「教わらずに自分たちだけで染めをする」事を明確に意図して、ビジョンを持って気概満ち満ちで取り組んでいるから。
僕の最近の染めはこんな感じなんだよねー、最近こんな工夫をしてるんだよねー、という感じで「同志と切磋琢磨」という感覚がはっきり持てて有意義。
各地でコミュニティを作っていて「自分たちのコミュニティで物づくりをしていきたい」という気概を持った人達の集まりの中でやるのも面白い。
ワークショップが必要無くなる未来が見える中でやるワークショップは面白い。いつまでも染めの先生を演じなければいけない感じがしてしまうと、僕はその関係性に面白みを感じなくなるし、残念な気持ちになってくる。
非常に微妙な紙一重。

染めについて独自に探求することで得られるものが多いと思うし「教わらないとできないもの」という考えは危険だとも思っている。
と同時に僕は「草木染」という言葉を作った山崎家の三代の染色家達の作法から学ばせてもらっているし、染め司よしおかの吉岡幸雄さんに対する畏敬の念が、常に背筋を伸ばさせてくれていると感じているし、各地で染めで生計を立てている同世代から学びと刺激を受けている。
そして一方で、僕はみんなで染める楽しさもあると思うけど、基本は一人でじっくり染める時間に気づきと学びと感動の深まりがあると思っている。

繋がり合う事は大事だけど、もたれあったり依存しすぎたり、群れすぎていては、共同作業もクリエイティブにはなっていかない。

「染め教えます」という気持ちは僕の中にまったくない。
「今やっている染めを包み隠さずオープンにします。あとはご自身で探求、発展、させてほしい。」と思っているし、もっと言えば「その探求や発展の先に見えたものを、今度は僕に教えてほしい」とも思っている。

でも、工房でやっているとどうしても僕は工房主だし、WSに来る人よりは染めている時間が長い事が多いから「先生」と「生徒」の関係を固定化しやすいような気もしている。
せっかく真剣に伝えたのに、その場だけの実践で終わってしまって、伝えた内容も忘れられていく、っていうのは、理解できるし責める気はないけど、やっぱり悲しいし、それが続くとどうしても心が疲れてくる。

味噌や鉄火味噌を皆で作っている時は、僕は場作り担当、世話係、用務員、みたいな気持ちになれるし、皆が主役!って感じになるんだけどね。このあたりは、とても微妙。

染めの文化を一緒に育んでいきたいとは思う。
その入口、きっかけを作るつもりで工房での染めWSを始めたけど、やってみて、今はそんなことを感じている。
「教えます」ではなく「一緒に染めよう」と呼びかけたい気持ちになったら、そのつど企画するくらいにしていこうと思う。
たとえば、毎年5月の蓬染めはやりたい。
みんなで河原に行って蓬を摘むのは楽しいし、みんなで蓬を炊いてその蒸気を浴びるのも、足湯をするのも、楽しい。
季節の共同作業という感じがするし「蓬が今年も育ったね」とお祝いしあえる感じも嬉しい。
大阪の中の自然を分かり合える喜びがある。

このあたりはとても微妙。
今までやってきたワークショップは全部楽しかったし、その「楽しかった!」という大きな声と「でも、引っ掛かりもあるんだよね」という小さな声も聞いていきたいということ。
今までやってきた全部が意味があり、全部の体験がギフトになって、色々な気づきをくれた。
初めて染めに触れる人達が見せる笑顔やアーティストとしての輝きを本当に美しいと思ってきた。そして同時に、その美しさにもっと貢献したいと思うからこそ、小さな違和感を大事にしたいとも思う。

これは全部感覚でしかないけど、感覚が大事だと思う。
違和感に正直に。
思考停止や感覚麻痺や感覚無視でロボットのように物を生産するのではない、手足や五感を研いで物に向き合うのが手仕事だから。

ということで、、妄想メモでしたー◎

2016年11月11日金曜日

talking about TPP

「TPPのための企業連合」

ゼネコンのベクテル、石油メジャーのシェブロン、ボーイング、AT&T、コカコーラ、シティバンク、GAP、リーバイス、ジョンソン&ジョンソン、マイクロソフト、モンサント、ファイザー、などなど。

よかったら「TPP 企業連合」などでググって見てください。

これらの企業群が、アメリカ合衆国議会に圧力をかけています。
(正確にはアメリカ以外の政府及び議会にも)

「TPPはどこかの国家のためのものではない」
というのが僕の認識。

もっといえば、TPPはどこの国も豊かにはしない。
豊かになるのは多国籍企業および、それらの企業を支援している銀行、資本家、投資家のみだろう。

TPPを支える考え方は「新自由主義」

ネオリベラリズム。

自由といえば、聞こえはいい。

しかし、少し噛み砕くと「市場原理」と「個人の自由」に基いて好きに経済競争をさせればいいし、政府による介入は最小限に押さえるべきという考えが見えてくる。

資本主義社会における市場は、通貨発行権を牛耳る民間銀行からの借金を元手に頼らざるを得ない。

そこで生まれる「利子」という架空のお金を奪い合う「避けられぬ奪い合い」が市場原理。

政府が介入せず、個人の自由にやらせる。

太平洋の国々を縦横無尽に渡り歩き、土地土地に根を張って栄養を吸い上げていくような多国籍企業活動を、より一層好きにやってもらうための約束がTPP。

そして多国籍企業活動を優遇するために、
「日本国内での添加物規制を緩めないとうちの企業の商品が売りにくいじゃないか。これは自由貿易を侵害するものだ。」
とか
「日本国内の車線を右車線にしてくれ。そうしないとアメ車が売りにくいじゃないか。」
「国がサポートしている郵便局はガン保険をやらないでくれ。そうしないとアメリカの保険会社が参入しにくいじゃないか」
「地元の住民が仕事につきやすいような優遇措置は、アジア各国から労働者を連れてくる上で不平等だからやめてくれ」
などといった声が挙がっているらしい。

そして、前述の新自由主義の発想の前提にあるのが「優生思想」
人類の中には優れたものと劣ったものがある。

優れた遺伝子を優遇していけば人類はより進化できる、的な考え。

エリート優遇。

大企業の法人税は減免し、労働者への負担が大きい消費税は増やしていく。

山と積んだワイングラスの一番上にワインを注げば、いつか必ず下々のワイングラスにもワインが行き渡る。
だから上層部から潤わせる事が大切。

という考えを「トリクルダウンセオリー」なんて言ったりしながら、高層ビルの屋上でワイングラスを傾ける人達が潤うような思想体系と、それらの思想に基づいた経済構造を、TPPでリフレーミングしようと考えているのは、どこかの国家ではない。

僕はこの優生思想とも、新自由主義とも違う考え方を持っているのでTPPは飲めない話。

理由はシンプル。

遺伝子の優劣など、決められるものだとは思えないし、決めたいとも思わないし、決めてほしいとも思わない。

優劣という物差しで人を測るのではなく、仮に「沢山の資源をまとめて仕入れる力がある」とか「計算が早い」とか「いっぺんに沢山の物を正確に作れる」という事が「優れている」という評価に繋がるとしても「計算が遅い人」や「ゆっくり、少しずつでないとものを作れない人」も大切にされるような、お互いの個性の多様性を受け入れあい、尊重しあいながらの経済を営みたい。

個人の自由に任せた孤立と競争ではなく、お互いの感じている事や考えている事について耳を傾けあえるようなコミュニケーションのある経済を目指したい。

染めに使う純米酢は大量に仕入れられるから単価を下げる事が出来るグローバルマーケットではなく、少量しか仕入れられないから単価が上がってしまう近所の酒屋と雑貨屋で買う。

この数十円の差は、地域への投資だと思っている。
「来週5本ほど染めに使いたいんですよね」とか「この前もらった前掛けあるけど使う?」というような一つ一つの会話が、信頼関係や共生感覚といったプライスレスな価値を生むと思う。

すぐにうまくできなくても、諦めずにそんな社会を目指し続けたい。

言葉だけではなく、実践を持って。

そして実践だけでなく、言葉も使う。

わかり合うだけではなく、わたりあうことも大切だと思う。

お互いが本当に生き残るために、譲れないものは譲れない。

非暴力と、不服従。

・・・

改めて、その考え方は飲めない。

TPPは受け入れられない。

まずは急ぎ足の感ある批准への流れを食い止めて、話し合いの時間を作ろう。

そして、その間、たゆまず、暮らしと仕事を通じて、自分なりの考えを育てて、しっかり膝を突き合わせて話し合っていきながら、今は見えぬ未来の暮らしと仕事とつながりのあり方を、試行錯誤しながら、右往左往しながら、みなで作っていきたいと思う。

#stoptpp

2016年11月3日木曜日

資本主義のピラミッドってポピュラー?





先日「おかねについて語らう会」(会場:モモの家)で配ったポスター。
これは1911年に世界産業労働組合が作った「資本主義のピラミッド」をあしらったもの。
各層は上から
「資本主義」
「我々はあなたを支配する」
「我々はあなたを馬鹿にする」
「我々はあなたを撃つ」
「我々はあなたのために食べる」
「我々は全員のために働く、我々は全員を養う」
となっている。
このようなポスターを作る人、認識している人、このような社会構造を理解している人がいる。
日本で配ったら「陰謀論者」とか言われそうだ。
日本はあくまでも敗戦国であって、最上層の「資本主義」を支える代理店のようなポジションについている事が「この構造を教えてもらえない」という現実を支えている土台になっている。
そして、太平洋戦争より前、明治維新のタイミングで「資本主義」の思想を取り込んだ時点から「彼らのために働き、彼らを養う」ことを始めたこともこの構造に気づきにくいという現状に大きく影響しているのだろう。
だからTPPのような、まさにこの構造をより強固にするような条約に対しても鈍感になってしまうのかもしれない。
この仕組みを支える一人であるディヴィッド・ロックフェラーお爺さんは『ロックフェラー回顧録』(新潮社)の中でこう語る。
・・・
「なかには、わたしたちがアメリカの国益に反する秘密結社に属していると信じる者さえいる。そういう手合いの説明によると、一族とわたしは“国際主義者”であり、世界中の仲間たちとともに、より統合的でグローバルな政治経済構造を-言うなれば、ひとつの世界を-構築しようとたくらんでいるという。もし、それが罪であるならば、わたしは有罪であり、それを誇りに思う。」
・・・
彼を始めとする資本家ネットワークが各国政府および関連機関、メディア、教育、医療、軍事、インターネット、その他、世界を支える主要な機関の全てを手中に収めている今、このような言葉を包み隠す必要はなくなっている。
バレたところで、誰がこの構造を覆せるというのか。
反対するのは簡単だ。
でも、結局みんな、私たちのお世話になっていて、自分たちなりのシステムを作って自分たちで管理するなんてことをしようとする人間はいないじゃないか。
せいぜい「もっといい餌をくれよ!」「安全をくれよ!」と叫ぶだけじゃないか。というような事を、言っている。
そのとおりかもしれない。
資本主義社会にとってかわる人間関係を作る模索、実験、実践をすること。
誰かのやっていること、言っていることに反応したり評価を下すだけでなく、意思表示するだけではなく、「実際につくる」ということを、もっともっと大事にしたいと思う。
戦争を望まないなら、9条に頼るだけでなく、平和外交のような隣人との対話の実践、戦争のようではない議論の場作り、贈与の意識と愛による経済、助け合いの地域づくりの実践、共同作業によるものづくり、実践していきたい。
「いやいや今まで完全任せっきりでしたねー。」
とか言いながら、手前味噌で作った味噌汁を前述の翁と一緒にすすりたい。
昨日のテーマは「しほんしゅぎってなんだったっけか?」
脳内に漢字を入れることすら難しい人もいる。
そんな人を置いてけぼりにしないコミュニティ。
情報を持っている人が、持っていない人を見下さないコミュニティ。
無関心層といった「括り」「レッテル」で人を裁かず、排除もせず、攻撃せず、誰でも安心して輪に加われるような語らいの場として「おかねについて語らう会」を続けていこうと思います。
昨日は参加者から
「フェアトレードについての話ならできるよ」
「安保闘争後に生まれたコミューン、部族の経済について語れるよ」
「ギフトエコロジーを紹介できるよ」
といった声が上がってきました。
おそらく次回以降、こういった「新しい実践」につながる話を持ち寄り合うことになっていくと思います。
ちなみに、この「おかねについて語らう会」の主催団体「モモのがまぐち」は、自分たちで作った本「つながりのなかで はたらき まなび あそぶ」の売上を6年間貯め続けて作ったコミュニティバンク。
小さな仕事、小さな活動を支えるための無利子少額融資&カウンセリング&事業サポートをしてきました。
これからは、ブログなどを通じて、知っていること、考えていることを、より一層噛み砕いて、伝えていこうと思います。

TPPのための企業連合、そして私たちの立ち位置は


「TPPのための企業連合」
ゼネコンのベクテル、石油メジャーのシェブロン、ボーイング、AT&T、コカコーラ、シティバンク、GAP、リーバイス、ジョンソン&ジョンソン、マイクロソフト、モンサント、ファイザー、などなど。
よかったら「TPP 企業連合」などでググって見てください。
これらの企業群が、アメリカ合衆国議会に圧力をかけています。
(正確にはアメリカ以外の政府及び議会にも)
「TPPはどこかの国家のためのものではない」
というのが僕の認識。
もっといえば、TPPはどこの国も豊かにはしない。
豊かになるのは多国籍企業および、それらの企業を支援している銀行、資本家、投資家のみだろう。
TPPを支える考え方は「新自由主義」
ネオリベラリズム。
自由といえば、聞こえはいい言葉だ。
しかし、少し噛み砕くと「市場原理」と「個人の自由」に基いて好きに経済競争をさせればいいし、政府による介入は最小限に押さえるべきという考えが見えてくる。
資本主義社会における市場は、通貨発行権を牛耳る民間銀行からの借金を元手に頼らざるを得ない。
そこで生まれる「利子」という架空のお金を奪い合う「避けられぬ奪い合い」が市場原理。
政府が介入せず、個人の自由にやらせる。
太平洋の国々を縦横無尽に渡り歩き、土地土地に根を張って栄養を吸い上げていくような多国籍企業活動を、より一層好きにやってもらうための約束がTPP。
そして多国籍企業活動を優遇するために、
「日本国内での添加物規制を緩めないとうちの企業の商品が売りにくいじゃないか。これは自由貿易を侵害するものだ。」
とか
「日本国内の車線を右車線にしてくれ。そうしないとアメ車が売りにくいじゃないか。」
「国がサポートしている郵便局はガン保険をやらないでくれ。そうしないとアメリカの保険会社が参入しにくいじゃないか」
「地元の住民が仕事につきやすいような優遇措置は、アジア各国から労働者を連れてくる上で不平等だからやめてくれ」
などといった声が挙がっているらしい。
そして、前述の新自由主義の発想の前提にあるのが「優生思想」
人類の中には優れたものと劣ったものがある。
優れた遺伝子を優遇していけば人類はより進化できる、的な考え。
エリート優遇。
大企業の法人税は減免し、労働者への負担が大きい消費税は増やしていく。
山と積んだワイングラスの一番上にワインを注げば、いつか必ず下々のワリングラスにもワインが行き渡る。
だから上層部から潤わせる事が大切。
という考えを「トリクルダウンセオリー」なんて言ったりしながら、高層ビルの屋上でワイングラスを傾ける人達が潤うような思想体系と、それらの思想に基づいた経済構造を、TPPでリフレーミングしようと考えているのは、どこかの国家ではない。
僕はこの優生思想とも、新自由主義とも違う考え方を持っているのでTPPは飲めない話。
理由はシンプル。
遺伝子の優劣など、決められるものだとは思えないし、決めたいとも思わないし、決めてほしいとも思わない。
優劣という物差しで人を測るのではなく、仮に「沢山の資源をまとめて仕入れる力がある」とか「計算が早い」とか「いっぺんに沢山の物を正確に作れる」という事が「優れている」という評価に繋がるとしても「計算が遅い人」や「ゆっくり、少しずつでないとものを作れない人」も大切にされるような、お互いの個性の多様性を受け入れあい、尊重しあいながらの経済を営みたい。
個人の自由に任せた孤立と競争ではなく、お互いの感じている事や考えている事について耳を傾けあえるようなコミュニケーションのある経済を目指したい。
染めに使う純米酢は大量に仕入れられるから単価を下げる事が出来るグローバルマーケットではなく、少量しか仕入れられないから単価が上がってしまう近所の酒屋と雑貨屋で買う。
この数十円の差は、地域への投資だと思っている。
「来週5本ほど染めに使いたいんですよね」とか「この前もらった前掛けあるけど使う?」というような一つ一つの会話が、信頼関係や共生感覚といったプライスレスな価値を生むと思う。
すぐにうまくできなくても、諦めずにそんな社会を目指し続けたい。
言葉だけではなく、実践を持って。
そして実践だけでなく、言葉も使う。
わかり合うだけではなく、わたりあうことも大切だと思う。
お互いが本当に生き残るために、譲れないものは譲れない。
非暴力と、不服従。
・・・
改めて、その考え方は飲めない。
TPPは受け入れられない。
まずは急ぎ足の感ある批准への流れを食い止めて、話し合いの時間を作ろう。
そして、その間、たゆまず、暮らしと仕事を通じて、自分なりの考えを育てて、しっかり膝を突き合わせて話し合っていきながら、今は見えぬ未来の暮らしと仕事とつながりのあり方を、試行錯誤しながら、右往左往しながら、みなで作っていきたいと思う。

2016年10月21日金曜日

海旅Camp2016、改めてどうもありがとうございました。

海旅Campのブログに、今年の振り返りの記事を書きました。
8月以降、スタッフや参加者の皆さんが記事を書いてくれています。
ぜひさかのぼって読んでみてほしいです。

放射能という、今までの世界の生み出した産物と、
子供達という、これからの世界を生み出す希望が混ざりあって、
子供達を見守る大人たちの祈りと、情熱と、日々育まれる多様な形の優しさが、それぞれの1年を支える力になっていることを実感します。

そして来年に向けた準備は始まっています。
これからもご支援、連帯、協力、どうぞ宜しくお願いします!

2016年10月19日水曜日

ノーベル賞ってなんだったっけか?ディランさんと考えてみる。


ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するかもしれない的な話をjapan timesやnews weekで読んで、いろんなことを思った。
かもしれないというのは、、
未だに本人に連絡取れていないようで、受賞を拒否する可能性もあるみたいなので。
ノーベルは、今の資本家たちが成功させている巨大利権によるビジネスモデルの雛形を作った一人。
ダイナマイトを作り、軍事と公共事業(道路やダム建設など)という国家事業を代表する2つの産業界に広がる巨大利権を牛耳った。
民間人相手のビジネスではないから、国家予算を資金源にほぼ自動的にお金が流れてくる。
今でいえば、電線の利権、石油利権、インターネット網、鉄道網の利権など、政府と経済界の用意したいわゆる「一般的な」暮らし方を民間人たちに覚えさせて、皆がそのように生きるだけで自動的にお金が入ってくる仕組みを作った草分け。
ノーベル賞は、僕の認識では、、
誰かの発見や研究を、賞を与えて買い取る。またはノーベルネットワークに取り込む。または直接取り込まずとも「誰に賞を与えるか」で皆の思想や印象に影響を与える事を意図した賞。
ウランを使った放射線の研究をしていたエンリコ・フェルミやキューリー夫妻に賞を与え、研究所を与え、資金提供を続け、国家事業に取り込み、そこで生まれた利権を総取りする。
彼らの作ったノーベル・ウランカルテルもそのひとつ。
賞を与えるということは評価するということ。
芸術に対してひとりひとりが「好き」とか「嫌い」とかって評価することは、理解できる。
ノーベルさんたちが「ディラン好き」っていうのも、理解できる。
こいつを取り込みたいとか、こいつを取り込むことで、皆の思想をこう操作したい、という意図を持つことも理解できる。
でも、ノーベル賞は世界的な評価、という評価を無自覚に信じている空気とか、彼にノーベル賞を与えるのはどうだこうだ、と皆が騒ぎすぎる事にはちょっと違和感をおぼえる。
「ノーベル賞は特別な賞」と言い過ぎることで、一部の人達が与えた評価を絶対的なお墨付きにしてしまうことは危険。
そのさまは「政府が言っているんだからそうなんだろう」という事と対して違いがないように感じる。
誰かが言ったこと、誰かが下した評価を皆で信じる事で、
その信仰心が社会の利権構造を維持しているのだと思う。
トクホと書いてあるからOK
とか
なんとか認証マークがついてるからいいとか
政府が「直ちに影響がない」と言っているから安全とか、ね。
その原型の一つがノーベル賞。
そしてさらに気になったことは、「音楽なんか文学じゃねー!」みたいな批判があること。
それは批判が行き過ぎてるだろ。と思ったりした。
盲目な信仰心が生み出す対立構造。
隣人が隣人を差別する内戦、civil war。
音楽と音楽家に囲まれて仕事してきたから、芸人、芸術家、芸能人に対する差別、意味不明な上から目線、意味不明な下から目線、依存、攻撃、バッシングといったエネルギーについては敏感なのかもしれない。
「音楽家は政治なんか目指すんじゃねー!」
というどこかで聞いたセリフに似た匂いを感じる。
いいじゃん、ノーベルが音楽も文学って思ったんだから。
それは彼独自の評価にすぎない。
それに反対賛成というより、自分のセンスで何かを祝ったり、したらいいんじゃないかな。
違うと思うなら、あなたも◎◎賞とか作ったらいいんじゃない。
なんて思ったり。
そして、こうやって反応して日記を書いてしまう僕も踊らされてんなーなんて思ったり(笑)しつつ、今日も世界で起こる様々に一喜一憂しながら生きていくのでしょう。
長岡で、米山知事当選後の空気を味わいながら。
追記:今日のWS(昼:保養、養生、放射能対策/夜:NVC、ファシリテーション)主催のせいちゃんの家が選挙後の座間宮ガレイさんのツイキャス会場だったと知り、世界は狭いと思ってます。

2016年10月17日月曜日

お金についてのフリーペーパー / 新潟県知事選について


10月9日に新潟市で行ったお金についてのお話会で、2010年に作ったフリーペーパーを久々に配らせていただいた。




改めて読み直してみて、お金の成り立ちについても、TPPの特徴や問題点についても、6年前と今とでたいして変化はないという当たり前の事を実感した。

新しいニュースを仕入れる事も大事だけど、たくさんの情報をよく噛まずに飲み込んで消化不良を起こすよりは、ひとつひとつじっくり咀嚼して、しっかり腹に落としていく事も大事。
それでこそ腹をくくって腹を決めて動いていけるようにも思う。
以下のページからPDF版をダウンロードできるので、よかったら読んでみてください。参考文献も紹介しています。
http://cc-suilen.blogspot.jp/2013/01/pdf.html


新しい新潟県政ということを考えた時、パッと浮かぶキーワードをざっと並べてみる。
・市民オンブズマン
・市民シンクタンク
・ブリーフィング
・ロビイング
・クラウドストーミング
etc


・市民オンブズマン
県政を見守り続けるネットワーク。
県議会、県政で何が起きているのかを皆で見続ける。


・市民シンクタンク
知恵は皆で出し合う。
「再稼働反対」だけでなく「再稼働に頼らない県政」の姿形を皆で考える。原発や核施設の稼働を止めた後の自治体の経済構造をうまいこと変えていったグッドプラクティスを世界中から集めるとか。
「TPPの問題点」を検証し合うとか。


・ブリーフィング
メディアが私たちの望む情報を流してくれない時、「彼らは情報を隠している」とバッサリやる前に「もしかしたら、本当に知らないのかも」「もしかしたら、本当に伝え方がわからないのかも」と想定してみると、実際そうだったりすることも少なくない。
忙しすぎて情報を得られない、または咀嚼出来ていない、ということが往々にしてある。
よく噛んで消化しやすい形にして、記者、メディア、関係機関に情報を提供していく。
市民、県民、国民がメディアになって、マスメディアや議会、行政に情報提供をしていく。


・ロビイング
議会や県庁のひとりひとりに、ひとりひとりが会いに行くという具体的なコミュニケーションの場が増えること。
新潟は上越、中越、下越で気質も文化もすごーく違うと思っている。海と山でも全然違う。色んな人がいる。スーツを着てネクタイを締めた人だけが議会や県庁に出入りしていたら、そりゃ県民の姿も偏って見えるだろう。色んな人がいるってことを、色んな人が彼らに会いに行くことで伝えていけたらいい。


・クラウドストーミング
沢山の人たちの声を「見える化」していくこと。
再稼働を望まない人達を「70パーセントほどの県民」と括った、その先のディティールを可視化。
ひとりひとりの声を集めて、誰もがその声に触れられるようにするとか。再稼働に頼らない新潟県の姿、イメージをシェアしあうとか。そのイメージを具体的な形にするためのアイデア、実践例をあげあったり、それをまとめていったり。
県議会はなお再稼働容認の空気。
であれば、本来県民の声をまとめる役割を持つ議会にその仕事を任せるのではなく、みなでみなの声を集めて届ける役割を担っていくことが、新しい知事と新しい県民の関係として、今からできることなのではないかなと思ったりする。

と、色々書いたこと、県内外関係なく、みなでやっていけたらいいなと思っています。

これはあくまで現時点でのメモ。
今日から新潟県内各所で会うみなみなさんと、これをたたき台に色んな話をして、色んな話を聞いて、出来ることを見つけていきたいと思います。