2016年7月26日火曜日

海旅Campへのご協力、ご支援、どうぞ宜しくお願いします。

僕が大阪中津に冨貴工房を立ち上げた大きなきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故です。

当時の僕は、原発事故によって振りまかれた放射性物質による身体への影響の大きさを考え、体の免疫力や解毒力を高めていく為の実践を本格的に始める場を作る必要性を感じていました。

こればっかりは「やるべきだ」とか「みんなでやろうよ」と呼びかけてどうこうなるものではないし、みんなが「やろう」と言ってくれるまで待ってもいられないと思いました。

なぜなら、放射性物質はすでに僕の体を蝕んでいると、実感していたからです。

僕はもともと、虚弱体質です。
生まれてすぐに百日咳、風疹、麻疹を患い、物心ついた時には重度の気管支喘息。
中学校を卒業するまで、毎食後に飲む薬を手放した事はなく、毎月のように夜中に病院に運ばれ、毎年入院を繰り返し、今以上に痩身だった僕は「マッチ棒」と呼ばれたりしていました。

僕がしきりに養生養生と言うのは、自分の体の虚弱さを知っているからです。

5年前、放射能汚染事故が起きたあと、風評被害を起こしたくないのでどの場所とは言いませんが、放射能ホットスポットと呼ばれる土地を訪ねた後に体調が崩れるという経験を繰り返し「明らかに自分は被ばくしている」と感じました。

そして、被ばくの影響は、短期的には、ごく一般的な生活をしていたら気づきにくいだろうな、とも思いました。

特に急性の被ばくは、二日酔いのだるさと見分けをつけるのは難しいと思ったし、化学物質や添加物を常食している人にとっては、それの影響と放射能の影響を区別することは難しいだろうな、と思いました。

透明の水に色水を垂らしたら、すぐに気づく。

でも、すでにたくさんの絵の具を入れて濁った水の中に一滴の色水を垂らしても、色の変化には気づかない。

気づかぬうちに、少しずつ身体が蝕まれていく可能性。
生まれたての、濁っていない水を持つ子どもたちから影響が出てくる可能性。

これらを体感しながら何もしないという事は出来ませんでした。

もちろん以上の感覚は、あくまでも僕自身のもの。
放射能と体調の因果関係を実証しろと言われてもできません。
だから、鵜呑みにはしないでください。

そして一方で思うのは、この「実証しろ」「エビデンスを出せ」という脅迫のような言葉によって、世界の被ばく者達は未だに口をつぐまされ、十分な医療保障などの権利を獲得できずにいるという事実。

だから、ことさらに「絶対因果関係がある!」と叫ぶことはしませんが、自分の実感を元に、対策はしていきたいと思っています。

誰も分かってくれなくても「皆が気づいた時に、対策の道がない」という状況になっていくことを、黙ってみている事は出来ないと思うのです。

・・・

放射能と向き合う時に生まれる恐怖心。
過度な恐怖心は、信じられる対象を求めてすがるメンタルとつながってしまう可能性がある。
この恐怖心を煽って信者を増やすような事はしたくない。
だから、放射能対策に関してはことさらに、ネット上で発信することは控え、淡々と、放射能の身体への影響と、それに対する対策を、人体実験のように自分の体を使って実践し始めた流れの中で、工房を立ち上げました。

僕に対して
「養生養生言ってるわりに、目の下にくまがあるのはなぜ?」
という質問をしてくれた人がいます。

その時はその質問を受けて「自分は否定されているんだな」と感じてしまって、うまく受け答えできませんでしたが、心身の養生を心がけていなかったら、今頃こんな風に仕事したり旅したりなんてできていないでしょう。

「喘息もアレルギー体質も一生治らない」
という言葉を呪文のように唱え続けられた幼少時代には信じられなかったような現実を今生きている、という実感があります。
目の下のくまぐらいで済んでいるのは日々の養生のおかげだと思っています。

・・・

僕が4歳のころ、気管支喘息が少しでも楽になるようにと、僕が生まれた千葉県松戸から、今も実家のある茨城県守谷に引っ越してくれました。

当時の守谷はその名のとおり、3つの川に囲まれた谷、田畑や沼や池も多い、自然豊かな田舎。

喘息の発作が起きない時は毎日泥だらけになって日が暮れるまで遊んでいました。

沼や池で溺れたり、山の上から落ちて怪我をしたり、怖い体験もたくさんしました。

自然の面白さと恐ろしさ、そして奥深さを肌に染み込ませた原体験をくれたのは、当時会社を立ち上げたばかりで貧しかったにもかかわらず、仕事上の負担よりも僕の健康の向上を選んでくれた父の決断のおかげでした。

今思えば、疎開保養、転地療法。

守谷から松戸まで、毎日車で2時間ほどの道のりを通勤し続け、夜中に発作が起きれば嫌な顔もせずに病院に運び徹夜で看病してくれた父。

そんな父はそんな苦労について語る事は一度もありませんでした。
たったの一度も。
それはおそらく、僕に罪悪感を与えないための思いやりだったのだと思います。

僕は恥ずかしながら、2011年の原発事故を経るまで、父の決断とその後の献身、愛の大きさに気づかずにいました。

原発事故後に始めたもうひとつの取り組みは、転地療法、疎開保養のためのキャンプの運営です。

2012年に愛知の友人たちと立ち上げた「海旅camp」は今年で5回目を数えることになりました。

このcampを通じて、子どもたちが健やかに過ごせる環境を作る事の意味の大きさを、改めて実感しています。

放射能から子どもを守りたいと願う人達であれば誰でも参加できるキャンプ、福島県内在住などといった参加資格を設ける事のないキャンプとして毎年30人〜40人ほどの親子を受け入れてきました。

回を重ねるごとに、自然の中で過ごすことや健康に配慮した食事を摂る事による健康状態の向上だけでなく、共同生活を通じてこれからの生き方を見つめなおしたり、それぞれの思っていること、感じていることを受け止め合う事によって心の健康を向上させる事など、保養キャンプには目に見えない様々な利点があることを感じています。

しかしその一方で、それらの効果は目に見えにくいものです。

僕が幼少時代にもらったもののように、それらの価値を言葉で説明することは難しいと思っています。
また、キャンプ参加者のプライバシーを踏まえるとキャンプ中に起こった事を広めにくい事などもあり、世間一般には保養の現場の空気感や必要性は伝わりにくく、保養という言葉が風化してしまっているような気がしています。

それにともない、キャンプの運営費を捻出することが年々厳しくなっています。

今年の海旅campは8月13日〜17日の4泊5日で100万円ほどの経費がかかります。

この経費はスタッフの持ち出しとカンパでまかなっていますが、今年は7月末の時点で60万円ほどが不足しています。

私たちは、これから20年以上にわたって保養という取り組みの継続が必要ではないかと思っています。
そして、私たちのおこなっている試行錯誤がこれから長い年月をかけて放射能と向き合っていくための、小さくとも確かな実践の場になっていくと思っています。

今までは、自分たちの努力でなんとかしていこうと思ってきましたが、今は少し考え方が変わってきています。

ひとりの覚悟、ごく少数の人達の苦労によって事を成就させていくのではなく、皆で手を取り合って、少しずつ気持ちを持ち寄って支えあっていくこと。

その環を広げていくこと。

そのために「分かってもらえないかもしれない」という諦めを乗り越えて、自分たちが大切だと思うものについて、語り続けていくことを、していきたいと思います。

一人の父の覚悟、ではなく、皆で支え合うことで、この現状を乗り越えて行きたいと心から思います。

恥ずかしながら私たちは、今年のキャンプを実現するための運営費を賄う事もできないままに今に至っています。

そんな私たちですが、保養の現場を作りたいという気持ちは萎えることなく持ち続けています。

改めて、私たちの取り組みを支えてくれる方を求めています。

どうか、力を貸してください。

よろしくお願いします。

・海旅キャンプ支援金口座
ゆうちょ銀行(店名)ニ一八 普通 4818236 ウミタビキャンプ
郵便振替 記号12100 / 番号 48182361 ウミタビキャンプ

2016年7月16日土曜日

日本は唯一の被ばく国?

今日は世界で最初の原爆が投下された日。
1945年7月16日、アメリカ合衆国ニューメキシコ洲アラモゴード近くの砂漠でそれは行われた。

すでにその時点で、

「核爆発は、人のいないところで」

という約束が取り決められ、

彼らが「人ではない」と認識する、黄色人種や赤色人種、黒色人種の多い場所のみで大気圏核実験という名の人体実験が行われ続けてきた。

マーシャル諸島、ビキニ環礁、セミパラチンスク、ネバダ、そして日本で。





「日本は唯一の被ばく国」

なんというプロパガンダ。

この言葉を信じることで、日本人はさらに孤立するだろう。

この言霊によって、世界中にいる被ばく者たちと手を取り合うことを拒んでしまっている。

核の被害者は世界中に広がっている。

だから僕は、広島、長崎、福島を同列に並べることを好まない。

せめて並べるなら、ウラン鉱山から。

掘る時点で、被ばくがあるのだから。

ニジェール、ナミビア、オーストラリア、カナダ、アメリカ、インド、カザフスタン。

そこに生きる人達の実情は、ほとんどインターネットには上がってこない。

あまりにも辺境で、ネットも新聞もないようなところだから。






僕は彼ら彼女らの言葉を手記や映画で、または口伝えや直接の会話から知った。

でも、僕は「伝え合うツールがないのだから、知らなくても仕方ない」とは思わない。

知ろうという意識こそが、知と出会う引力になると思う。

その意識は、外からやってくるものじゃないし、道具によって促進されるものでもない。

知る事に対する覚悟を持てるかどうかだと思う。

世界で何が起きているかについて、当事者として生きる覚悟が出来るかどうかだと思う。

知ったことで自分の生活を変えなければいけなくなることもある。

そのことに対して心の準備ができているかどうか。

そこが常に問われているんだと思う。

消費者マインドから当事者マインドへ。

消費者マインドは、相当根深いよ。

口で言うほど簡単じゃない。

簡単じゃないことこそが、本質的な変化を生む力だと思う。

今日は大間原発建設地に行ってきます。

毎年訪れるたびに切り崩されていく平原。

巨大なクレーンが立ちはだかるその圧倒的な風景を見に。

そこで味わうであろう悲しみや怒りや落胆を、自分のものとして引き受けるために。

これが自分の生きる世界の現実だということを、肚に落とすために。

口だけではない変化を生きる当事者としての意識を高めるために。

そして、大間の土地に新たなウラニウムを持ち込ませないために。

この土地で起きている分断や対立や悲しみの連鎖を終わらせるために。

世界のすべての場所から被ばくによる苦しみをなくすために。

2016年7月14日木曜日

参院選、憲法/語るということ

色んな人が色んな角度で憲法を語っている。
多様な角度からとらえた憲法論に触れていたいと思う。
歴史の中で憲法の存在意義も変わってきている。
十七条憲法と、大日本帝国憲法と、日本国憲法。
時代背景の違い、人々の意識の違い。
憲法を制定したことで有名な聖徳太子は、その後の政権争いで一家惨殺された。
スサノオノミコトは戦さの世を終わらせるために「草薙の誓約(うけい)」という非戦の誓いを言挙げたと言われている。
ヤマトタケルも同じ祈りを持って「草薙の剣」をおさめたと言われている。
太平洋戦争が終わって平和の誓いを立てた人達もいる。
何度誓っても破られる、非戦の願い。
・・・
武力を持たずに国を守るなんて、お花畑だ!
現実をわかってない!
そう言いたくなる気持ち、わかる。
理想を言ってるだけで、無責任だ!
と言いたくなる気持ちもわかる。
どれだけ自分たちが外交で苦労してきたか、
どれだけ武力によるプレッシャーを受けてきたか、
その中で日本人が戦争に直接加担しないようにどれだけ大変な渉外をしてきたか、あんたらはわかっているのか、
と言いたい気持ちもわかる。
日本が軍事侵攻されずに済んだのは、誰のおかげだ、
と言いたい気持ちもわかる。
わかるという言葉を軽々しく使いたくない、とも思う。
「もっとわかりたい」といったほうが正確か。
いろんなことがあっただろう。
苦労も、苦悩も、葛藤も、戸惑いも、スリルも、、、
いろんなことを体験してきたのだろう。
戦争体験だけでなく、戦後体験をもっと、肌で感じたいと思う。
理想だけ掲げて、その理想を現実にするための努力はせず、
理想から遠ざけている元凶と思しき人達や政党を、ただ責める。
これじゃ見下されても、馬鹿にされても、当然だ、と思う。
・・・
今、自民党の「憲法の田村」と呼ばれる田村重信の著書「改正・日本国憲法」を読んでいる。
自民党の悪いところだけを見つけていては、話し合いにはならない。
この道路も、この電線も、この水道も、誰が引いてくれたんだろう。
忘れてはいないだろうか。
自民党が進めてきた政策、彼らがやってきた仕事。
その何割が「有り難いこと」で何割が「やってほしくないこと」だろう。
僕は半分以上の仕事は「有り難いこと」だと思っている。
ほとんど、と言ってもいいかもしれない。
任せっきりにしてたのに、突然やってきてディスる。
これは礼儀に反するなと思う。
そんなこんなを思う気持ちがどんどん強まり、彼らの考えを、彼らが感じていることを、彼らの言葉で読むことをしたいなという気持ちが生まれて、そうしている。
なんで武力が必要と思うのか。
自分たちだけが非戦を掲げても、まわりの国々が好戦的では、やられてしまうんだ、という現実認識もあったりする。
実際田村さんはそういうことを書いている。
チベットの例を挙げたりして。
僕はアメリカインディアンの歴史やアボリジニーの歴史やアイヌの歴史を思った。
彼らの中にも武器を持つものはいた。
しかし、その中に武器を持たぬ者たちが、武器を持つものに駆逐されていく歴史が存在することも事実。
そして、それらの歴史を真摯に受け止めた上で、どうしたらいいかを考える。
そのうえでの結論の1つが武力を持つ事だったりするんだろう。
・・・
僕はこの結論に待ったをかけたい。
今までの歴史や政治、経済のリアルをちゃんと学び、受け止め、当事者として生きることを実践しながら、
それらに対して無責任であった自分を改めながら、
途方もない理想を、掲げ続けていきたい。
相手がナイフを突きつけてきても、核弾頭を向けてきても、丸腰でいたい。
ただ、その覚悟を持って生きているかといえば、私たち平和を願う人達は、まだまだ「口だけ」だと思ったりもする。
奪い合い、殺し合いに対して、まだまだ鈍感だし、まだまだ当事者性が足りない。
そして、そんな途方もない、現実離れした理想の未来を描きながら、その理想を現実にするための努力をしていない。
だから信じてもらえない。
・・・
アメリカ政府からのプレッシャー、
日本を仮想敵国とした戦勝国連合からのプレッシャー、
外国籍の巨大な財閥、資本家、王家からのプレッシャー、
それらのすべてと対峙することを、私たちは任せきりにしてきたのではないかな?
よく植民地にならなかったな、と思う。
政治家たちも頑張ったし、官僚たちも頑張ったし、
世界が驚くほどの経済発展を遂げたことも、日本の地位を保つ事に対して大きく貢献した。
だから、経団連や官僚や政権与党が力を持つのは当然だとも思う。
それだけの事をやってきたら、力もつくだろう。
そして、、彼らの言葉の背後に「嘆き」や「孤立」を感じることも少なくない。
それは、そういった様々なことを任せきりにされて久しい事に対する、口だけの民主主義に対する、落胆、諦めとも言えるようなもの。
大体、自民党は1955年の結党当時から憲法改正を党是として掲げ続けている。
そのような政党に政治を任せ続けてきて何を今更、と言われても仕方ないな、とも思う。
戦後、世界中を旅してきた日本人は、憲法9条を語り、原爆の悲惨さを語り、武器を持つ事の恐ろしさを語り、武力に頼らない世界を作ろうと呼びかけるような、「市民外交」のような事をしてきたのだろうか。
自民党や官僚や経団連が行ってきた外交に頼ることなく、自分たちの言葉で、自分たちのセンスで、平和外交をしてきたのだろうか。
むしろ、戦争や搾取や差別によって成り立つビジネスを黙認してきてはいなかっただろうか。
国際平和を実現する当事者であろう、という憲法前文に書かれた誓いを、形にしてきたのだろうか。
・・・
護憲なんて笑わせるな。
現実的じゃない。
と言われても仕方ないな、と思った。
戦争に加担しない衣食住。
争いをなくしていくようなライフスタイルの実践。
「いつかはそんな暮らしをしたい」
と言いながら、その理想を今現実にすることを諦めているような暮らし方。
それでは信じてもらえないだろう。
辿りつけないかもしれないけど、それでも諦めずに理想に向かって生きていく。
三宅洋平が外務大臣をやりたいと言ったのは、
日本だけでなく、他国に対しても『武器を手放そう』と伝えて回るつもりなんだろうと思った。そこまでの覚悟を持っての意見だろうと思った。
そんなの無理だ、という人もいる。
しかし、その未来に向かって生きるのは自由。
今、憲法の是非を問われているようで、私たちの生き方そのものを問われている。
恐れや不安やあきらめを越えて。
人任せな気持ちを越えて。
昔々から、細々とでも途絶えることなく、平和への祈りが捧げられ続けてきた。
「必ずたどり着く」
平和への祈りが、今も響いている。


2016年7月13日水曜日

参院選をみつめなおす

今回の選挙の事を振り返ったり、文章を書いてみて、、
どうもしっくり来ないのは、自分が一番強く感じてる事を書いていないからだって事に気づきました。
最も反省すべきは自分自身の動き。
今回の参院選について、反省すべきところ、見なおすべきところ、ごまんとある。
そこは不言実行。
これからの行動で克服していきたいと思います。
そして今日は、自分自身を仕切りなおすために、この15年を少し振り返ってみます。
2001年のNYテロが起きた時、ソニー・ミュージックにいた自分はすぐに「なんという茶番」という事を感じました。
これが社会で起きている事に感性を働かせた最初の体験でした。
音楽業界で、プロモーションという名の仕掛けと扇動について日々頭を使い、こちらからの仕掛けに社会がどう反応するかを観察し続ける日々の中で「何がやらせで、何が自然発生的な出来事なのか」の見分けがある程度つくようになってきたからか、あの出来事の背後にシナリオがあるのではないかということを直感しました。
色々調べていくと、
アメリカ政府がその後FBI、CIA、警察官僚の権限を強め、国民の自由の範囲をどんどん狭めていくような法案や条例を可決させていくような事態が起こっていることを目の当たりにしました。
戦争を起こす時、政府は「仮想敵」を作る事で国民の意識を「好戦的」な方向に先導し、国民の一部は、拡大された貧富の差を憂い、怒りを強め、貧困層の一部が自主的に戦争を支持し、安定した賃金を得られるとうたわれた軍隊に加入していく、というシナリオ。
そして、この流れは数年遅れで必ず日本にやってくるという確信。
こういった状況を知る過程で2003年「第九条の会なごや」の事務局を務める当時70代のおじいさん、おばあさんと出会いました。
名前を川合さんと言います。
川合さん夫妻は、僕の家までわざわざ歩いてやってきてどっさりと資料を置いていってくれました。
「憲法9条を受け継いでほしいと願う 一老人より」
という言葉と共に。
僕はこの言葉と、
わざわざうちまで来てくれたというその思いにしびれて、、、
即決で「第九条の会なごや」に入りました。
入ってみると、この会のメンバーははほとんどが70代以上。
お寺でお茶を飲みながら、憲法についての勉強会の手刷りのチラシを封筒に入れる作業を一緒にしたりしながら、戦争体験を聞いたり「今は戦前のようだ」というような話を聞いて過ごすのが日課となりました。
彼らの「若い人たちともっと繋がりたい」という切実な声を聞いた
僕は、高校生を読んでおじい、おばあと語らう会を開いたり、会主催のイベントや「戦争展」という名の手作りの展示会に知り合いのミュージシャンを呼んだりして、なんとか世代と世代を繋げないかと苦心してきましたが、同世代の友人からは「話が難しい」とか「それも大事だけど生活や仕事のほうが大事」とか、聞いていて辛くなるような言葉ばかりを聞かされて、当時20代だった僕は「もういいよ。お前らにはもう語らない。」と心を閉ざしてしまいました。
何が辛いって、、こんなに切実に平和を願っている人達がいるのに、その言葉が古いとか、ダサいとか、たったそれだけの理由を付けて否定されるのが、本当に辛かった。
そんな言葉を間に入って聞いてるのが辛かったし、自分自身の力量のなさ、経験のなさによって、そんな状況をどうにも出来ないことも本当に悔しかった。
自分が大事だと思うものを否定されることが、とてもつらかった。
「もういい!」と本当にグレて、同世代に伝えることを諦めようと思った頃「アメリカから、イラク戦争にはっきり反対の意思表示をして、大統領予備選にまで出たデニス・クシニッチという議員を呼ぶことになった」という話を聞いた。
戦争体験をしている人達以外の繋がりが欲しかった僕は、彼を紹介する映像を作り、彼に会いにワシントンに行った。
この投稿の最後に付した映像は、その時に作ったものの一部分。
2005年9月、第二期小泉政権が樹立した時、僕はワシントンの議員会館を回っていた。
ワシントンで知り合った人達と人生初のロビイング。
「日本では今、憲法を変えて戦争を出来る国にしようとしている政党が政権を取っている。国家を越えて平和への連帯を強めていかないといけないと思って日本からやってきた。」
なんて熱い事を語ったりした。
そして、憲法9条を英語に翻訳したプリントを、街中で配って意見をもらったりした。
全く無視する人もいたけど、
「これはやばい詩だ」
とか
「こんないい憲法持ってるのになんで活かさないんだ」
とか
「アメリカでも広めるよ!」
とか
勇気づけられるコメントも多くもらった。
そして日本に帰ってきて、議員会館を訪ねてみてびっくりした。
「え?なんでスーツ着た人しかいないの?」
会館の外ではプラカードを持ったラフな服装な人達がちらほらいたりするけど、なぜか会館内には、企業ロビイストか官僚か国会関係者とおぼしき人しかほとんど見当たらない状況。
ワシントンの下院上院両議員会館の中には、もっといろんな人種、いろんな服装の人達が出入りしていたし、その周辺のカフェでも、バーでも、多様な人達が政治を語っていた。
それが国会周辺の一般的な風景だと思ったんだけど、、
永田町はそうじゃなかった。
物々しい武装車と、こちらをジロジロ睨むように監視する警察官と警備員。難しい顔をしたスーツ姿の男達。
恐怖と緊張を煽る空気、男中心の空気、同じ服装を強いる空気。
日本の政治の偏りは、政治家たちが日々目にする風景、日々目にする人種が偏っている事に原因があるんだと感じた。
この日本列島には、永田町ではあまり見かけないような多様な価値観の、多様なライフスタイルを営む人達が生きている。
そのことを政治家が知らなければ国会での話し合いは偏ってしまうだろうと思って、それから何度も院内集会にも参加したし、主催者のひとりとしてそういった場を開いたりもした。
そこで感じたのは、市民運動というものが、政治の偏りと同様に偏っているということ。
政治家や官僚に対する怒りをそのままぶつける、その言葉と波動の強さ、重さが痛かった。
そして、その強さ、重さをいつしか自分もまとってしまっていることにも気付いた。
物事が偏って見えるのは、自分自身が偏っていたからだろう、
僕自身の目が偏見に満ちていたからだろう、と今ならわかる。
いつの間にか「タカは固い」「難しいことばかり言う」という事を影で言われているということを知った時には、もう後戻りできなくなっていた。
どうしてそんな自分になってしまったのか、自分でもわからないくらいに、、、落胆や絶望や怒りや悲しみや焦りや罪悪感に潰されそうになっていたし、、そんなごちゃごちゃの気持ちをさらにエスカレートさせるような、悲しい出来事や悲しい現実を知り続ける日々が続いた。
でも、向き合うことはやめられなかった。
やめられない理由は、たぶん、50歳以上年の離れた戦争体験者の思いとつながっていたから。
理屈抜きに、たぶんただそれだけが僕が活動をやめなかった理由。
・・・
自衛隊をイラクに派兵することをどうしてもやめてほしかった。
でも、その願いは叶わなかった。
そして、イラクで起こっていることを、イラク人から直接聞いた。
原発で使う核燃料を作る時に生まれる放射性物質「劣化ウラン」を1トン1ドルほどで買い取ったアメリカ政府は、この劣化ウランを弾頭につけた通称「劣化ウラン弾」をイラクの非武装の住民(大人も子どもも問わず)の頭上からばらまいた。
そして、小児白血病やがんが多発した。
イラクの医者達は、自身の被ばくを覚悟しながら、彼ら彼女らの治療を続けていた。
日本に50基以上ある原発を稼働させる為に大量に生み出される劣化ウラン。
僕はこの時、日本が憲法を変えなくても、自衛隊を派兵しなくても、すでに戦争を起こしているという事を実感した。
自分たちの暮らしが、戦争に加担し、戦争から抜け出せない中毒症状を促進させている。
僕はここから活動の方向性を変えて、日本の原発と自分自身の暮らしとを、足元から見つめなおして、今ある戦争から降りていく事を目指す実践を試行錯誤し始めた。
・・・
憲法について語ること。
12年前に買った本を読み返して、fbにアップした。
その時、少し胸が騒いだ。
あの頃に浴びせられた言葉を思い出した。
ビクビクしていた自分を思い出したし、孤立した気持ちも、絶望や怒りも、思い出した。
自分の中にあった「諦める」という気持ち。
どうせわかってもらえない、という気持ち。
この気持ちを、もう一度見なおそうと思う。
相手を責めるのではなく、相手を責めたくなる気持ちの奥にある自分の感情を、もっと深く見つめなおそうと思う。
憲法についての勉強会、再開します。
まずは地元関西、大阪、兵庫、京都で。
そして荻窪で、札幌で、やることを決めました。
これから各地でやっていくので、各地で情報キャッチよろしくお願いします。
そして、メールマガジンをはじめます。
自分が出会った情報、浮かんだ考え、もっと発信していきます。
自分の中にあるものを、相手を疑わず、相手を敵と想定せず、もっと伝えていこうと思います。
メルマガについては、また詳しく書きます。
・・・
参院選が終わって、何を分析してもしっくり来なかった。
やっぱり見なおすべきは、常に自分。
変わっていきたいと思います。
過去を乗り越えていきたいと思います。
この15年間、たくさんの素敵な人達に出会えた。
たくさんの素敵な経験をさせてもらった。
今生きているのは、有り難い仲間のおかげ。
グレていた僕が、少しずつ立ち直ってこれたのも、
笑顔でいられる時間が増えてきたのも、
それもこれも、この間に出会った仲間のおかげです。
改めて、本当にありがとう。
以下は2005年に初めて作った映像の一部。
重い機材を一人で担いでイラク派兵についての映像を作っていた70代のおばあにシゴカれながら作った映像。
彼ら彼女らの願いを受け継いでいきたいという思いを、新たに。