2017年7月28日金曜日

武器を農具に

僕の住む中津から、みそ部畑のある箕面まで電車で30分。
畑に通い始めた頃、むき出しの鍬を背負って電車に乗っていた。
電車に鍬。違和感あるなー。奇異なものを見る視線も感じた。


植え替えるための苗や収穫したハーブを持って電車に乗る時も、
泥や土が着いた服で乗る時も、同じような感覚を覚える。
畑と家を往復する中で味わう、何とも言えないアウェー感。
誰もが食べる野菜や米。
なのに、それらを作るための道具を持っていると違和感がある社会。
農と暮らしが溶け込みにくい、土や泥や生命の匂いが排除されつつある社会。
農具を染めようかと思った数ある理由の中の一つは、
「どうせ視線が来るなら、鍬や鎌や鉈(ナタ)を”なんだかよくわからない棒”にしちゃえ」と思ったから。
そして「これなんですか?」と聞かれたら大豆畑の楽しい物語を話そうと思ったから。
そしてもう一つ思ったことがある。
農具として鉄器が導入されてから、武器としての鉄器を作る技術も普及し、戦さが増えていったという話。
確かに鍬や鎌や鉈、振りかざされたらひとたまりもない。
電車に乗っていて「ギョッ」とされる、その気持ちもわからないでもない。
そしてこうも思う。
そもそも、植物や動物や微生物たちにとって、これは紛れもなく武器。
鍬で根っこを断ち切る時、鎌で草を刈る時、うっかり蚯蚓を寸断した時、「生きるために殺している」という行為の主体としての自分を思う。
機械に任せる事、薬に頼る事で「私たちは生命を殺している」という実感が薄れていく。
農具という武具を用いて自らの手で殺傷する。
腕に残る手応えと実感。当事者性。
お互いの死滅と生育に深く関与しあっている自然の一員としての自覚。
誰がどんな農法や製法で作ったものであれ、
私たちが日々食べているものはすべて、
どこかの誰かがこのいのちのやりとりをしてくれているおかげさまで、
食卓に運ばれてきている。
「いただきます」「ごちそうさまでした」の祈りと合掌に繋がる、いのちのやりとりの道。

「すべての武器を楽器に」
という言葉を思い出し
「すべての武器を農具に」
という言葉が浮かんだ。



追記:
7月30日 18時〜21時
「冨貴夜市」@冨貴工房で農具を麻炭で染めるWSを開催します。
https://www.facebook.com/events/2032081537019907/
土用は消化力を高めたり、腸内細菌たちが喜ぶ栄養をたっぷり摂るとき。
命をありがたくいただき、しっかり血肉にしていけるよう、
ふるまいみそ汁など用意したいと思います。