Life is Journey 〜世界のすべての場所から被ばくによる苦しみを無くす為の旅の再開〜 2016.12


ただいま12月14日の昼@太平洋上空にいる、はずなのですが、もうすぐ日付変更線をまたぐので突然15日の朝にワープし、原稿の締切が急速に迫ってきます。

11月21日からアメリカ合衆国カリフォルニア州を1週間かけて巡り、メキシコのカンクンで行われた環境国際会議「生物多様性第13回締約国会議(COP13)」に参加する合計24日間の旅の帰路に筆を取っています。

日本を離れるのは2010年以来、6年ぶりのこと。

この旅は、あとで振り返っても人生の中の大きな節目になる体験になると思うので、これから何号かを通してじっくり振り返っていけたらと思います。

僕が日本列島を最後に離れたのは2010年の夏。

台湾生まれ日本在住で上関原発建設計画を止める活動などを共にしていた故ダン・ギンリン君の誘いで、日本企業が建設中の台湾北部「貢寮(コンリャオ)」の原発計画を止める為に行われたイベントと原発敷地を囲むヒューマン・チェーン(人間の鎖)に参加し、1週間ほどかけて台湾各地で交流を深めてきました。

その頃日本では、青森県六ケ所村に建設中の再処理工場で放射性物質が漏れる事故や作業員がプルトニウムを吸い込む事故などが相次ぎ、青森県大間、山口県上関、宮崎県串間、熊本県天草などで新たな原発建設計画が動き、プルサーマル計画や核廃棄物地層処分計画も進行するなど、日本列島全体が核開発をさらにエスカレートさせていました。




特に上関では工事を阻止するために世代や地域を越えて人々が集まっていたにも関わらず海に土砂が入れられていった時「日本国内の繋がりだけでは原発推進の勢いは止められないのではないか」という気持ちが強くなっていました。

そんな中での台湾訪問で僕は現地の人達にとても勇気づけられ、また自分達が彼らの為に出来ることもあると感じました。

日本には50基以上もの原発が立ち並んでおり、面積におけるその密度は世界一。

その分、エンジニアや学者、現場作業員の人口密度も世界一。

反対運動や阻止行動の歴史も相当長く、そのスタイルも多岐に及んでいます。






一方台湾にある原発は4基。

作っているのは国外の企業と技術者達。

現地の人達には情報も少なく、僕も被ばくのメカニズムや核燃料サイクルについてなど沢山の質問を受けました。

原発や原爆に関する沢山の体験や情報を持つ日本人が、きちんとその中身を語り、伝えていく責任と役割の大きさを強く実感しました。

ひとりではできないこと。

つながりあうとできること。

そして「仲間がいる」と思えることがお互いの気持ちを支える。

ウラン鉱山の人々、台湾やインドネシアやインドで原発建設と向き合う人々、
日本やウクライナやベラルーシで原発事故からこどもを守ろうとしている人々、
つながりあいの大切さを思う。


同じ2010年秋に愛知で行われた生物多様性条約会議COP10。

この時、上関原発建設予定地では地元住民や全国から集る有志によって建設準備工事を止めるための舟が毎日出ていた。

そして会議の現場には、上関を始め、圏央道建設の為のトンネル工事が始まろうとしていた東京の高尾、再処理工場が建設中の青森など、日本全国からその声を届けに人々が集まっていた。

その声は、世界から集まる人達の声ともつながり、現場では様々なムーブメント、アクションが生まれた。

この会議 への参加を通じて、日本人が世界の市民運動のネットワーク中で孤立していること、意識の上でいまだに鎖国を続けているような感じになっていること、そして「つながりあうことで生まれる希望や可能性」について強く実感した。

2010年に体験した台湾での交流と、COP10での交流。

この2つの体験を通じて、世界から被ばくをなくしていくための連携を強めていく為に、
海を越えた交流を進めていく事に可能性を感じ、具体的な渡航計画を立て始めた直後、
福島第一原発は爆発し、原子炉の近くに住んでいた仲間たちの移住の支援や、
正確な情報の発信と共有、保養や被ばく対策など一気にやることが山積みになりました。

原発の危険性を知りながら壊れるまで止める事ができなかった事と、
壊れた時の対策を何も出来ていなかった事への深い後悔もあり、
日本国外に一歩も出ることができなくなっていたのがこの5年間だったのでした。